エフェス遺跡

関空からイスタンブールへ11時間、国内線乗継ぎでイズミールへ1時間、さらにバス1時間でトルコ南西部エーゲ海エリアの古代遺跡エフェスに着きました。アレキサンダー大王がこの地を征服し、エフェスはヘレニズム様式の都市となります。その後、ギリシャ系の勢力はローマ帝国に征服され、紀元前33年にはアントニウスとクレオパトラがエフェスを訪れます。ヴァリウスの浴場とオデオンという音楽堂は2世紀の建造物です。大通りには大理石が敷き詰められています。
クレテス通り

オデオンでは劇や音楽のほか議会も開かれました。大通りを進むと展望が開け、エーゲ海が見えます。この坂道はクレテス「聖職者(神官)」通りというエフェス遺跡のメインストリートです。ギリシャ神話の勝利の女神ニケのレリーフはヘラクレス門のアーチでした。ニケ(NIKE)はナイキの語源ですね。エフェスは東西貿易の集積港として栄えましたが、土砂の堆積で海が後退し15世紀に廃墟となります。
ヘラクレスの門 ハドリアヌス神殿

クレテス通りの山側の入口がヘラクレスの門です。ハドリアヌス神殿は彼の訪問後に記念碑として西暦138年に建築されました。ハドリアヌスは五賢帝の一人で、映画テルマエロマエでは市村さんが演じていました。一番下の写真は男性専用の水洗式トイレです。仕切りはなかったようです・・・。
ケルススの図書館 大劇場

ローマ帝国アジア州総督ケルススを記念して西暦117年に建築され、1万2000冊の蔵書を誇る図書館は、アレクサンドリア図書館、ペルガモン図書館とともにローマ時代の三大図書館でした。コリント式の支柱には知恵・知性・知識・美徳の4体の女性像が並びます。大劇場は紀元前3世紀に建築されますが、歴代ローマ皇帝により増改築され、2万4000人を収容する大きさとなりました。訪問時は修復工事中でした。
アルテミス神殿跡

エフェスの歴史は古く、紀元前12世紀のヒッタイト王国時代にはすでに都市がありました。紀元前700年頃に最初の神殿が建設され、2度消失しますが、紀元前323年、3度目に再建された巨大神殿は「世界七不思議」に数えられました。プリニウスの博物誌に、広さ115m×55m、高さ18mの127本の柱が大理石の神殿を支えていたとあります。ちなみにアテネのパルテノン神殿は紀元前438年の完工で、広さ70m×31m、円柱の高さ10.4mです。出土品を組み合わせた写真中央の1本の柱のみが往時を偲ばせます。手前の石積みは別の建物跡です。写真下の2体のアルテミス像はクレテス通り沿いの市庁舎跡からの出土品で、「豊穣の女神」の胸部の多数の円形物は乳房や卵などと解釈されています。神殿には15mもの像があったと記録されています。
チョップ・シシ シリンジェ村

トルコの大地は世界最古の巨石建造物群である1万2,000年前のギョベクリ・テぺ遺跡をはじめ、多くの遺跡、多くの国家の歴史をもつ民族の交差路です。エーゲ海地方にはギリシャ系の住民が居住していましたが、1923年のローザンヌ条約でギリシャとトルコの住民交換が実施されました。元ギリシャ系住民の学校がレストランになっており、村にはトルコ系住民が居住しており、観光地になっています。この地方の名物のチョップ・シシは焼き鳥のような串焼きで根本の羊肉の脂身で焼かれています。
カラハユットのスパリゾート

エフェスから内陸部へ200km弱、バスで2時間半、世界遺産パムッカレ近郊の温泉カラハユニットに着きました。スパリゾートの内側にはプール、屋外には温泉プールがありました。鉄酸化物を含むやや緑っぽい赤茶色のミネラルを感じる温泉でした。
パムッカレ

石灰含有温泉が標高350mあたりで湧出し結晶化してできた広大な石灰棚が拡がる景勝地です。残念ながら開発ラッシュのために温泉が枯渇し、エメラルドブルーの奇跡の絶景はなくなってしまいました。「るるぶ」などに掲載されている「パムッカレの絶景」は10年以上以前に撮影されたもののようです。
パムッカレの石灰棚

35℃くらいの温泉水が長さ500mほど数段の石灰棚を流れており、素足で立ち入ることができます。一つ一つの石灰棚は深さ20cmほどの足湯プールで、ずらりと並んでいるのですが、世界中からの観光客で「ごった返し」状態でした。ザラザラのところは痛く、ツルツルのところは滑りやすく、片側は崖でスリリングでした。
パムッカレ温泉 ヒエラポリス

アレキサンダー大王没後に成立したセレウコス朝シリアは前192年のシリア戦争でローマに敗れ、アナトリア西部ではペルガモン(ベルガマ)を首都とするペルガモン王国が独立します。ペルガモンは前190年、パムッカレにヒエラポリスを建設しますが、前133年にペルガモン国王はローマに国土を遺贈し王国は消滅、ヒエラポリスはローマ帝国の温泉保養地およびアポロン神殿のある聖地となります。神殿の柱が沈んでおり、クレオパトラが泳いだかもしれないという伝説のあるプールや2世紀のハドリアヌス帝時代の劇場が見どころです。石灰棚の山側に隣接しています。
メブラーナ博物館

パムッカレから西へ約400km、バスで5時間、エーゲ海地方から中央アナトリア地方の古都コンヤに移動しました。中央アジアにいたトルコ系セルジューク族は1038年にセルジューク朝を建国、1071年ビザンツ帝国軍を破り、アナトリアに進出し1076年にコンヤを首都とします。メブラーナ博物館は1273年の建築で、セマーという旋回舞踏で有名なイスラム神秘主義のメヴレヴィー教団創始者のメヴラーナ・ジェラレッディン・ルーミーの霊廟です。
カラタイ博物館(神学校)

メブラーナ霊廟と同時期、1251年建立のイスラム神学校です。門の装飾、立体の浮彫はスタラクタイト(鍾乳石飾り)、建物は四角形の部屋からターキッシュ・トライアングル構造で円形のモザイクタイルで装飾されたドーム天井に移行しています。右上は、12世紀のセルジューク朝の宮殿の壁と覆い屋を兼ねた復元建築です。
ハマム(トルコの風呂)

コンヤで宿泊したホテルの地下にスポーツクラブがありハマムが併設されていました。入り口でバスタオルとショールのような布を渡されました。ロッカーの使い方がわからずにまごまごしていると親切な現地のおじさんが教えてくれました。ジムやプールはスルーしてハマムに入ると、その布は腰に巻くことがわかりました。「ペシテマル(ハマムストール)」と言います。真ん中の台は熱くて汗を出すためのものだったかもしれませんが、触れなかったのでわからずじまいです。中段はトプカプ宮殿の王族のハマム、下段はセルジューク時代のサライにある旅人用のハマムです。
コンヤ平原

翌日はさらに東方のカッパドキアまで250km、約3時間のバス移動です。イスタンブールがヨーロッパの東端でボスフォラス海峡を渡るとアナトリア(小アジア)です。アナトリアで最大の平原がコンヤ平原で、トルコの穀倉地帯です。小麦・大麦・トウモロコシ・テンサイ・ヒマワリ・豆・ニンジン・ジャガイモ等々、白いのは季節労働者が家族ぐるみで暮らすテント群です。シルクロードの起点はローマですが、イスタンブール(コンスタンティノープル)から東がシルクロード(絹の道)らしい平原や砂漠地帯となり、アジア旅の始まりです。久保田早紀「異邦人」の歌詞にでてくる子供たちは、オリジナル曲では中央線から見える風景の中の子供たちとのことですが、アレンジされてシルクロード風のサウンドとなり大ヒットしました。「空と大地が ふれ合う彼方 過去からの旅人を呼んでる道」をバスは走ります。
スルタンハヌ・ケルヴァンサライ

スルタン→王、ハヌ→造営、ケルヴァン→隊商、サライ→宿、すなわち「王立隊商宿」で、コンヤからアクアサライへの街道上にあります。13世紀のセルジューク朝時代(1229年)に建設された、最大で最も保存状態の良い隊商宿です。シルクロードを行き交う商人を盗賊から守るため、要塞のような造りになっています。
トルコ絨毯・ミナイ陶器

トルコ絨毯は中央アジアやアナトリア地方で生活する遊牧民であるトルコ民族(チュルク)の過酷な環境、テントの中での厳しい寒さを防ぐための防寒具や実用的な敷物として発展してきた歴史がありダブルノットという結び方で耐久性が強く直線的、幾何学的な柄が特徴です。なお、ペルシア絨毯は王侯貴族を魅了する宮廷美術として絵画のような繊細な表現が特徴です。多くのラクダをつないでいた空間にトルコ絨毯が展示されていました。ミナイ陶器はセルジューク朝時代にイラン周辺で造られた世界初の多色色絵陶器です。描かれている人物の顔立ちはコーカソイドではなくモンゴロイドのそれであり、突厥(チュルク)の子孫であることを語っています。
サライの厨房や食堂

サライでの隊商の宿泊は3日間までは無料で、広い中庭や奥の厩舎にラクダや馬を入れ、ハマムで入浴し、下段の共同キッチンで用意された食事を食べました。医師や獣医師も常駐していました。夏はアーケードの下、冬は暖炉のある冬用ホールの寝床で休みました。なお、マルコポーロは船でライアス(アヤス)に上陸しイランのタブリーズへと進んでおり、この地は通過していません。
サライといえば某社の雑誌「サライ」が真っ先に思い浮かびます。山城や遺跡や桜の名所などの特集記事、藤原正彦の連載(詩歌の品格)、サライ美術館、などなど、とても好きな雑誌です。
アヴァノスの陶器とテスティ・ケバブ

昼にカッパドキア近郊の町、アヴァノスに到着しました。「赤い川」の名をもつトルコ最長のクズル川が村の中心を流れ、川から採れる赤土と粘土を用いた陶芸が、ヒッタイト王国時代から続いています。カッパドキア地方名物のテスティケバブ(つぼ焼きの煮込み肉料理)を洞窟レストランでいただきました。
ウチヒサールの城塞

カッパドキア中心部にやってきました。100km離れたエルジェス山とハサン山という二つの火山が約300万年前に大噴火、大量に堆積した火山灰の上に火砕流が流れ、冷え固まった硬い玄武岩層が上部を覆い、下部の火山灰は凝灰岩となりました。長年の風化浸食で、上部の玄武岩とその下部は残り、キノコ型やトンガリ帽子型の奇岩が形成されました。中段は凝灰岩を削って造られた洞窟住居や洞窟教会、下段はウチヒサール城塞、ローマ時代後期にギリシャ系キリスト教徒が宗教弾圧からこの地に逃れ、敵を見張り戦うために造った城塞です。なお、ウチヒサールはトルコ語で「尖った砦」の意味です。
カイマクル地下都市

中心から少し南にあるカイマクルという町にある地下遺跡です。紀元前13世紀ヒッタイト王国時代から造り始められ、キリスト教徒がアラブ人の迫害をうけた9世紀頃(所説あり)に巨大化したと考えられています。地下8層、最大の深さ55mで、内部には台所、食糧庫、ワイナリー、教会などがあり、最大5,000人が暮らしたそうです。9km離れたデリンクル地下都市とつながっているとも言われています。地元の子供たちでしょうか?「ジャポー?(日本人なの?)」と手を振ってくれました。
洞窟ホテル

カッパドキアのキリスト教徒(ギリシャ系住民)は3世紀半ばから1923年のギリシャ・トルコの住民交換までこの地の洞窟住居に暮らしていました。近年、多くの住居跡がホテルにリノベーションされています。ライトアップされた洞窟ホテルは異国情緒たっぷりです。
午後の洞窟ホテル

洞窟ホテルを堪能するため2泊の設定となっており、午後をゆっくり過ごします。展望テラスにはトルコ絨毯が敷き詰められており、雨量の少ないカッパドキア地方でプールは贅沢な設備です。真夏ですが、標高1200mで、ちょっと寒いプールでした。
洞窟ホテルの室内

凝灰岩を刳り貫いた室内はおしゃれにリノベーションされています。表情のあるノミ跡、心おちつく木調家具、そして間接照明は白壁を温かい黄色調に染めています。屋根裏部屋のようなテレビを見るスペースにも圧迫感や閉塞感はなく、癒される空間です。ここで暮らした人々に思いを馳せながら、のんびりと手足を伸ばしました。
ギョレメ屋外博物館(洞窟教会)

宗教に関する遺跡にはすべて博物館の名前が付けられています。革命でトルコ共和国を成立させた初代大統領のムスタファ・ケマル・アタチュルクによる政教分離政策のおかげで、文化遺産や芸術として鑑賞することができるようになりました。
ビザンチン帝国領内でトルコ人による迫害を避けたキリスト教徒(ギリシャ系)が9世紀中ごろから11世紀にかけて、凝灰岩の一本岩を掘り抜いて造った教会には内部にフレスコ画が描かれ、30ほどが公開されており上段のようにキリスト教にまつわる多くの寓話や説話が描かれています。下段の「トカル・キリセ」の連続壁画「キリストの生涯」は920年に描かれ、「受胎告知」から「昇天」まで29場面あります。光が入らず凝灰岩は水をとおさないので保存状態は良好で色鮮やかです。
パシャバーの「妖精の煙突」

カッパドキア観光のハイライトの一つで谷一面にキノコ岩が立ち並んでいます。中に妖精が住んでいるという言い伝えがあり「妖精の煙突」と名づけられました。修道士が住んでいたとも言われています。
奇岩スポットと気球ツアー

カッパドキア観光の中心エリアは直径10kmほどのエリアで、ラクダ岩とか親子岩などのスポットが点在しています。下段は気球ツアーの乗り場で、早朝6時前後から1時間ほどのフライトで、その日の風向きでギョレメ周辺の谷で安全に飛ばせる場所を管理センターとパイロットが決定し離陸、ウチヒサルや奇岩群の上空を飛行して見晴らしの良い平地に着陸します。料金は予約方法にもよりますが、3~5万円と高価で、そもそも予約がかなり困難とのことです。天候不良時は航空局判断で中止となるようで、私が滞在した2日間は強風のため、気球は飛びませんでした。
カイセリのエルジェス山

バスでさらに東のカイセリへ移動。エルジェス山はトルコで4番目の標高3,916mの成層火山で約1,000万年前~300万年前に大噴火を繰り返し、カッパドキアなどに数百mの厚さで火山灰や溶岩を堆積させました。カイセリの市街地から25kmほどで、トルコ最大規模のスノーリゾートがあるようです。名前はギリシャ神話の百目の巨人アルゴスに由来します。
カイセリ空港

空港ロビーに入ると、初代大統領アタチュルク(左)と現大統領エルドアン(右)のバナー写真が目に入ります。第1次大戦でオスマン帝国が崩壊するとアタチュルクがトルコ共和国を建国、アタは父・チュルクはトルコ、すなわちトルコの父です。政教分離(カリフ制廃止)、文字改革(アラビア文字からローマ字へ)、一夫多妻制廃止、女性参政権付与、トルコ帽子の着用禁止、など近代化を一挙に押し進めました。
トルコ人とギリシャ人の住民交換など過激な政策も長期的にはトラブル予防となり、トルコ・ギリシャは友好を保っていますし、ロシアとも紛争がありません。日本ではエルトゥールル号遭難事件の串本大島にアタチュルクの騎馬像が設置されています。
トルコでは近年、約1万2000年前(新石器時代)の巨石神殿跡、ギョベクリ・テペ遺跡など世界史の常識を覆す考古学的発見が相次いでいます。イスタンブールへの飛行で、ちょうどキュルテペ遺跡上空を通過したので、遺跡を撮影できました。約4000年前の国際貿易都市で直径100mの円形建造物やアナトリア最古の楔形文字やヒッタイト語の痕跡のある粘土板の出土が有名です。
イスタンブールのバザール

バザールはペルシャ語で市場、その語源は「値段の決まるところ」とのことです。1460年頃、オスマン皇帝メフメト2世により屋根付きの市場が建設され、16世紀のスレイマン大帝時代に大幅に拡張され、30,000平方メートルの敷地に、66の街路、4,000の店舗があり、まさに迷宮です。宝石類、陶器、香辛料、絨毯類など、観光客向けの商品で溢れています。金角湾をまたぐガラタ橋すぐにあるL字型の商店街がエジプシャンバザールで、1600年頃に建設され、当初はエジプトの香辛料のほか、綿花やキルトが売買されました。現在はお菓子屋さんが多い印象です。
ヒポドゥローム

ヒポドゥロームは馬の道、すなわち競馬場です。330年、コンスタンティヌス1世は小規模だった競技場を、長さ400m・幅120mで3万人収容の巨大競技場に改修しました。映画「ベンハー」さながらの戦車レースが行われていたことでしょう。トラック中央には数々の記念碑が飾られていました。オベリスクは紀元前15世紀のものですが、390年にビザンチン皇帝テオドシウス1世がルクソールのカルナック神殿から、緑の蛇の柱はギリシャのポリス同盟がペルシャに戦勝した記念碑ですがデルフィのアポロ神殿から持ち込まれました。右上の柱はグランドバザール近くにあり、同じく330年に、コンスタンティヌス1世がコンスタンティノープルを造営した際、新たな街の中央広場(フォルム)に自身の銅像を頂上に設置するための柱です。
ガラタ橋

イスタンブール旧市街は半島先端の小高い丘にあり、南はマルマラ海、東はボスフォラス海峡、北は金角湾と3方を海に囲まれています。金角湾にはガラタ橋がかけられ、新市街に行くことができます。橋は2階建てで、2階には路面電車、車道、歩道があり、地元の釣り人がずらりと並んでいます。1階にはレストランやカフェが並び、海鮮料理が供されています。サバサンドはトルコ語で「バルック・エキメッキ(Balik Ekmek=魚のパン)」。バゲットに、焼きサバ・レタス・生の玉ねぎをはさんだシンプルなサンドイッチで、橋のたもとの屋台船で調理され、観光客が買っています。330トルコリラ(1100円)は物価の高いトルコでもとびきりの観光地価格でした。
ボスフォラス海峡クルーズ

ガラタ橋たもとから出港して北上すればすぐにボスフォラス海峡で西側がヨーロッパ、東側はアジアです。写真上左は旧市街のスレイマニア・ジャミィ。スレイマン大帝が天才建築家ミマール・シナンに建てさせたモスク。右上のガラタ塔は14世紀にジェノバ商人が築いた見張り塔。右中はドルマバフチェ宮殿は1856年に完成したスルタンの宮殿、共和国樹立後はアタチュルクの官邸、晩年彼は宮殿のハレムで過ごし、ここで54年の生涯を閉じています。左下はアジア側のウスキュダル沖合のクズ塔(乙女の塔)で灯台や税関でした。テレビドラマのオスマン帝国外伝では牢獄として登場しました。
ブルーモスク

正式にはスルタンアフメット・ジャミイで1616年の完成。6本もの尖塔(ミナーレ、約65m)はメッカのハラム神殿と同じ本数になったのでアフメットはメッカに1本増築しました。高さ43m、直径23.5mの大ドームは直径5mの象の足の柱と呼ばれる4本の柱が支え、4つの副ドーム、30の小ドームをもっています。
ブルーモスクのイズニックタイル

2階の壁には白地に青のチューリップ、カーネーション、リラなどの植物模様のイズニック産の装飾タイルが使われ、「ブルーモスク」の愛称はここからきています。建物全体の装飾タイルは約2万枚、カラフルな光彩のステンドグラスは260枚です。モスクとして使用されており、1日5回の礼拝時間は観光客の入場が中断されます。
アヤソフィア

元々はギリシャ正教の大本山、そしてビザンツ建築の最高傑作。325年にコンスタンティヌス1世の命で建築が開始、360年に完成。幾たびかの焼失後、ユスティニアスス帝がアテネやエフェスから円柱を運ばせるなどして現在の建物が537年に完成。1453年にオスマン帝国がコンスタンティノープルを陥落させると、メフメット2世により、聖堂はジャーミィに変えられました。本来教会なのでメッカの方向を向いていません。正面のやや右側に、カアバの方向を示す窪み状の施設であるミフラーブ(聖龕〈せいがん〉が設置され、イスラム教徒による礼拝は、建物の正面軸ではなく、メッカを向いて並びます。1934年、トルコ共和国のアタチュルクは博物館として一般公開を開始。しかし、2020年エルドアン現大統領がモスクに回帰させ、観光目的での入場を停止しましたが、2024年から観光客は2階のみ見学可能となっています。なお、2025年から3年計画で耐震補強および修復工事中です。
アヤソフィアのモザイク画

オスマン帝国時代に、キリスト教のモザイク画は漆喰で塗りつぶされますが、このことが逆に保存に役立ち、1931年にアメリカの調査隊により、漆喰の下に鮮やかな色彩のモザイク画が発見されます。右上は「ディーシス(請願)」で中央にキリスト、左に聖母マリア、右に洗礼者ヨハネ、1300年頃の制作でビザンチン美術の最高傑作です。右中は「聖母子に献上する皇帝」左はユスティニアスス1世、右はコンスタンティヌス1世、10世紀後半の作です。右下は10世紀の「皇帝アレクサンドロス」。
トプカプ宮殿

トプは大砲、カプは門。メフメット2世により1467年に創設、マルマラ海とボスポラス海峡を望む小高い丘に建てられています。アヤソフィアの裏側に1478年に建てられた皇帝の門、入ると第1庭園で左手にイスタンブール最古の教会アヤ・イリニがあります。次に表敬の門を入ると第2庭園。なお、右下はエジプシャンバザール前のイエニチェリ像。イエニチェリはキリスト教圏から集められ、スルタンに奉仕するように教育されたスルタンの近衛兵で、ドラマ「オスマン帝国外伝」でおなじみでした。
トプカプ宮殿 第2庭園

写真上が幸福の門で儀式の際に奥から皇帝が登場します。写真中の解説パネルのように、ここはディヴァン広場(会議広場)と呼ばれ、儀礼式や閲兵式が行われ、右に巨大な厨房、後方にイエニチェリの宿舎や厩舎、そして写真下は、左手にある御前会議や裁判が行われた会議の間と宮殿を守る正義の塔、オスマン帝国の中心地です。
トプカプ宮殿のハレム

ハレムはアラビア語のハラム(聖域)、ハラーム(禁止)が語源です。テレビドラマでは、奴隷市場から連れてこられた多くの女性が、皇帝やその家族の世話をし、皇帝の寵愛を競い、そして男子を出産した王妃たちは、わが子を次期スルタンの座につかせようと、激しい抗争を繰り広げていました。
トプカプ宮殿 寵妃の部屋

4番目までの男子を産んだ妃は、妻として部屋と召し使いが与えられ、優雅に生活しました。その他大勢はTVドラマのように写真39の大部屋で寝ていたようです。
写真下は宮殿外に出られない女性たちが陽にあたることのできる庭です。外界から隔絶されていますが、今は海が見えます。当時はどうだったでしょうか?
ヴァーリデ・スルタン(母后)の間

TVドラマでは皇帝スレイマンの母ハフサがまさにこのような部屋で暮らしており、夕食時には若い女性たちが踊っていました。2階建てのアーチ建築で壁には風景画が描かれています。写真下は母后専用のハマムです。
スルタンの大広間

ハレムの中で最も華やかな大広間で、皇帝が家族や側近と宴会を開いたところです。楽師の演奏でハレムの女性たちが踊るのを楽しみました。ドラマではクリミア半島で拉致されハレムに売られたマリア(後のヒュッレム妃)がここで踊り、スレイマン大帝の寵愛を得て、皇后への道を歩み始めます。
ムラト3世の間

写真上は皇子の間、ブルーが基調のさわやかな部屋です。部屋の別名は「鳥かご」、皇子たちはここで帝王学を学びました。写真中はアフメット3世の食堂で、花と果物をモチーフにした装飾です。写真下はムラト3世の間、名建築家シナンによって1578年に建てられ、ハレムで最も美しいと称えられています。
チューリップのタイル

トプカプ宮殿を彩ったイズミックタイルが展示されています。チューリップは茎の上の一つの花が唯一神アッラーに見立てられ、同時に繫栄や高貴さのモチーフとして、薔薇は預言者ムハンマドの汗から生じた花であり神の慈愛のシンボルとされ、盛んに描かれ、宮殿の壁に使用されました。
最も芸術性の高いタイル

左は生命の樹でスルタンの治世が長く続くようにという願いがこめられています。右はメッカの東約25kmにあるアラファト山(慈悲の山)を描いています。ムハンマドが生涯最後の大巡礼の際に最後の説教を行った聖地を描いているのです。
トプカプ宮殿 宝物館

写真上は「トプカプの短剣」で大きな3つのエメラルドが特徴的です。イスラム教では緑色は希望の象徴です。写真中は漁師が拾った原石をスプーン職人がスプーン3本と交換したという「スプーン職人のダイヤモンド」、86カラットの巨大なダイヤモンドの周りに49個の小さなダイヤモンドが飾られています。指輪や水差し、ターバン飾りなど数えきれない宝石が展示されています。
アギアイリニとヴァレンス水道橋

トプカプ宮殿の第1庭園に入ると左手にイスタンブール最古の教会アヤ・イリニがあります。4世紀にコンスタンティヌス1世により造られました。オスマン帝国時代は武器庫に転用されていました。写真下のヴァレンス水道橋は378年皇帝ヴァレンスにより完成、郊外の森の水を宮殿や地下貯水池に運びました。上下2段のアーチ構造で高さは20m、長さ800mが残っています。
スレイマンとイブラヒム・パシャ

下はスレイマン大帝の大宰相イブラヒム・パシャの屋敷跡。現在はトルコイスラム美術博物館になっています。上はスレイマニエ・ジャーミィ、スレイマン大帝が造らせ1557年に完成しました。ジャーミィ裏にはスレイマンと妻ヒュッレムの霊廟があります。「オスマン帝国外伝」に思いを馳せながらイスタンブール空港へ向かいます。
トルコの食事

左上は屋台のスィミット、ゴマ付きドーナツパン。左下はギョズレメ、チーズやひき肉の入ったクレープです。ホテルの朝食やレストランの店先で中高年の女性が焼いてくれます。右上はケバブとロカンタ(大衆食堂)。煮込み料理やケバブやスープなどの家庭的な料理がケースに並び、指差しで注文します。右中は野菜料理や煮込み料理。右下はチャイとトルココーヒー。チャイは濃く煮出した紅茶をお湯で割って飲み、ミルクやレモンは使わない。トルココーヒーは粉状のコーヒーを煮出して粉が沈むのを待って上澄みをのみます。
トルコのおみやげ

左上は宮廷菓子のロクム、求肥のような食感でエスニックな味わい。食べ物では、バクラバ(激甘の焼き菓子)やドライフルーツ、ナザール・ボンジューは青い目のような魔除けで定番のみやげ、下真ん中はイズニック焼やキュタフヤ焼などの陶器、左下は伝統手工芸・トルコ刺繍のオヤ。トルコ石は今やトルコでは採れないとか。





