倉吉の打吹城(うつぶきじょう)

打吹城は室町時代初期、伯耆守護の山名氏が築いた城です。戦国時代には尼子氏、南条氏、毛利氏による攻防の舞台となり、「関ケ原の戦い」後は中村氏、しかし1615年(元和元年)の一国一城令で廃城となり、1632年(寛永9年)に池田光仲が鳥取城に入ると、家老の荒尾氏が山麓に陣屋(倉吉陣屋)を設けました。30分ほどのハイキングで登りついた山上の本丸跡からは倉吉の町や奈良時代の国府跡が見えます。
倉吉と鳥取二十世紀梨記念館

古墳時代の祭祀遺物は重要文化財に指定されており、生産性の高い土地であったことがわかります。平安時代には刀鍛冶が盛んになり、国宝「童子切安綱」の作刀者、安綱を輩出します。江戸時代には鍛冶業は農具を生産し、また倉吉絣も名産品となり、商家が建てた白壁土蔵群は伝統的建造物群保存地区に指定されています。横綱「琴桜」は倉吉の出身で、記念館を懐かしく見学しました。倉吉張子「はこた人形」は愛らしい玩具(お守り)で、鳥取県指定郷土工芸品に指定されています。
鳥取二十世紀梨記念館なしっこ館に入場すると、大きな二十世紀梨のオブジェが出迎えてくれます。中国原産の梨の歴史をパネルで読むと、次に3種類の梨の試食があり、おいしさに感激。ミニシアターで鳥取での二十世紀梨栽培物語を学んだり、梨栽培の袋掛けを体験できたりして、「梨のすべて」を満喫できる楽しい施設です。
鳥取県立美術館

「スタバはないがスナバはある」は知事の平井さんの名言ですが、鳥取県には県立美術館もなく、昨年3月、倉吉市にこの美術館がオープンしました。アンディ・ウォーホルの《ブリロ・ボックス》を3億円で購入したことでも話題になりました。
「マンガを拓く谷口ジロー」展を観ました。谷口ジロー(1947-2017)は鳥取県出身の漫画家で「孤独のグルメ」が有名ですが、広いテーマと卓越した描写力で多くの作品を残しており、2011年にはフランス芸術文化勲章を受章しています。倉吉を舞台に描かれた「遥かな町へ」は映画化され、10月9日から全国公開中です。
岩井温泉

歌いながら柄杓で湯を頭にかける「ゆかむり」で有名な岩井温泉は、開湯1200年という山陰最古の温泉です。鳥取は「民藝」運動の盛んな地で、お宿のラウンジでは、民藝品の家具と座布団に癒されながら民藝カップでコーヒーを味わいました。
マリンピア賀露(かろ)

小さな水族館「かにっこ館」では、松葉ガニの解説はもちろん、大きなタカアシガニから1cmのヒメアカイソガニまでたくさんのカニが展示され、体験水槽は子供たちでにぎわっていました。海鮮市場では岩ガキをいただきました。またこの日は、梨の販売解禁後初の日曜日で、大賑わいの地場産プラザで地元価格の梨を購入できました。二十世紀となつひめと新甘泉の3種とも2Lサイズで素晴らしい味でした。
青谷かみじち史跡公園

1998年に始まった山陰自動車道建設に伴う発掘で、殺傷痕を伴う大量の弥生人の人骨が発見され、さらに3つの頭蓋骨内には脳組織が奇跡的に残存しており、大きな話題になりました。この3人はDNA解析により顔が復元されています。また、弥生時代の掘立柱建物、大規模な護岸施設、水田跡などが検出されるとともに、「地下の弥生博物館」と呼ばれるほど、通常の遺跡では遺存しにくい木器・骨角器・鉄器・青銅器なども多量に出土し、2008年に遺跡は国史跡に、出土品のうち1,353点は2019年に重要文化財に指定されました。
史跡公園と展示施設は2024年3月にオープンしており、2000年当時の現地説明会の熱気を思い出すとともに新しい立派な展示館に感激しました。北側の未調査場所については今後も発掘予定であり、「多くの弥生人がなぜここで亡くなったのか」という最大の謎が解明されるかどうか、今後も目が離せません。
因幡万葉歴史館

因幡国府は鳥取市街地から袋川をやや遡るとたどりつく、穏やかな山々に囲まれた広々した盆地にあります。古代因幡で最も住みやすい場所であり、奈良時代以前の史跡もあります。「岡益(おかます)の石堂(いしんどう)」はギリシア神殿の柱を彷彿させる中央部がふくらんだエンタシスで、中台石には「忍冬唐草文(にんどうからくさもん)が彫られていることから、7世紀後半の白鳳時代と推定される岡益廃寺に関連した石造物と考えられます。また、梶山古墳は魚などが描かれた壁画古墳、形は変形八角形であり、壬申の乱後の675年に因幡へ流罪となった皇族の磨績王(おみのおおきみ)の古墳なのでしょう。また、江戸時代に稲葉山中腹から石櫃が発見され、中に収められていた骨蔵器に刻まれた金石文から文武天皇時代に采女であった伊福吉部徳足比売(いふきべのとこたりひめ)の墓と判明しています。「麒麟獅子舞」など伝統芸能の紹介コーナーもあり、万葉歌人が生きた時代を中心に因幡国と万葉文化を紹介する歴史館です。
因幡国司たち

この地は大伴家持が国司として赴任したことでも有名です。歌碑には万葉集の最後を飾る「新(あらた)しき年の始めの初春のけふ降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)」が記されています。道の向かい側には、在原行平の歌碑「立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む」もあります。
京都の因幡堂の起源は橘行平の持仏堂であり、重要文化財の因幡堂縁起には、因幡に赴任して病気になった行平が夢のお告げに従い賀露津の海中から引き揚げた薬師如来像を因幡で祀ると病が癒え、彼が京に帰った後、仏像が歩いて京の屋敷にやってきた云々とあります。しかし、国司による蓄財の悪状を在地豪族である因幡氏らに訴えられたことに立腹して因幡氏を殺害し、その氏寺の仏像を強奪して京に持ち帰ったというのが事実のようです。行平は国司を解任されたのみでお咎めなし。このような事件が頻発し、武士が台頭、やがて摂関政治は崩壊していきます。
日本二百名山 森吉山

森吉山は、北秋田市の南東部、旧森吉町と旧阿仁町にある古い火山です。シルバーウィーク初日午前の晴れ間に登ることが出来ました。阿仁スキー場乗り場では看板秋田犬の北斗くんが出迎えてくれました。ゴンドラが中腹まで運んでくれるので、山頂まで1時間少しのハイキングです。少しの間、鳥海山や秋田駒ケ岳が見えましたが、湧き上がる雲に覆われてしまいました。「花の百名山」としても知られ、夏から秋には高山植物が咲き誇り、冬には中腹はスキー場、上部では蔵王や八甲田と並び、日本三大樹氷「森吉山の樹氷」を鑑賞できます。晴天の冬にバックカントリーで登り、鳥海山、秋田駒だけでなく、八幡平や白神山地や男鹿半島まで眺めたいものです。
秋田藩の秘湯 乳頭温泉郷

森吉山を下山後、6カ月前に予約しておいた温泉に移動しました。以前の日帰り入浴は大混雑でしたが、宿泊すると多くの貸し切り内風呂があり、足元から自噴する有名な露天風呂も貸し切り状態で、静かでゆったりした時間をすごせました。
江戸時代の宿「本陣」

門を入ってすぐ左側の「本陣」には、秋田藩主に随行した警護の武士が宿泊したといいます。5つの部屋があり、部屋の奥には綺麗なトイレがあります。鍵はなく夜は「つっかい棒」での戸締り。夕食時には、囲炉裏に炭が入り、山芋だんごの鍋と串刺しのイワナ塩焼き。室内には金庫のほかに現代のものはなく、江戸情緒満点でした。
北上市立博物館・みちのく民俗村

花巻市の南で和賀川が北上川に合流するところが北上展勝地、桜の名所です。北上の歴史を語る上で欠かせない「国見山廃寺」「樺山遺跡」「江釣子古墳群」「和賀氏」「北上川舟運」などについて、展示しています。奥州安部氏が国見山に立派な寺院を建立していたことに驚きました。民俗村には南部曲り家や武家屋敷、南部領伊達領境塚(国指定史跡)などがあり、大正時代や江戸時代に紛れ込んだようです。
賢治 自耕の地

宮沢賢治が農学校教師をやめ、自ら農民となって理想の農業をめざした地です。彼が住んだ「羅須地人協会」跡地には「アメニモマケズ」の詩碑が建ち、「下の畑」を見下ろすことができます。のどかな道を歩いてたどりついた下の畑では賢治に会えた気がしました。「羅須地人協会」は花巻農業高等学校の敷地に移築・保存されています。
宮沢賢治記念館

花巻市に童話館、山猫軒(レストラン)とともに記念館があり、彼の人生や作品が紹介されています。「雨ニモマケズ」は手帳に書き込まれており、死後よく見落とされなかったものだと感心します。妹トシの死を悼む「永訣の朝」、私には兄弟はいませんが、(あめゆじゅとてちてけんじゃ)は何度読んでも泣けます。読んでもわからないと感じる文学作品の多い私ですが、彼の紡ぎだす言葉や文章には深く共感できます。
歴史公園えさし藤原の郷

以前「るるぶ」で平安時代の寝殿の写真をチラリと見て気になっていました。今回の訪問で、元々は大河ドラマ「炎立つ」のためのオープンセットであり、テーマパーク兼撮影所となったことを知りました。
復元された政庁には、前九年合戦のはじまり、源頼義の陸奥守着任シーンが再現されています。解説展示コーナーでは前九年合戦がビデオで紹介されており、「炎立つ」の懐かしいシーンが蘇りました。黄海の戦いに敗れた源頼義(佐藤慶)、鋸引きで斬首される藤原経清(渡辺謙)、清原家衡(豊川悦治)により清衡館を妻子もろとも焼き討ちされ号泣する清原(藤原)清衡(村上弘明)・・・。
歴史ドラマのロケ地

政庁、平安時代の築地塀の通り、藤原秀衡の寝殿、清衡館、金色堂、等々が再現されており、数々の大河ドラマもここで撮影されたのかと感激しました。最近では「光る君へ」で吉高さんの演じる紫式部が、築地塀の通りを歩き、政庁では五節舞を舞いました。順路の最後にあるロケ資料館では、大河ドラマ「炎立つ」はじめ「光る君へ」「麒麟が来る」「真田丸」、映画「陰陽師」など、時代劇や歴史ドラマの「ふじわらの郷」でのロケの様子やドラマ台本やポスターなどび資料が展示されています。
奥州市伝統産業会館

奥州市は2006年に水沢市、江刺市、胆沢郡の前沢町・胆沢町・衣川村が合併して誕生しました。胆江地方は古代東北史の中心地で、最北端の前方後円墳である角塚古墳や阿弖流為(アテルイ)と坂上田村麻呂の時代の胆沢城跡、前九年合戦の衣川遺跡群など数多くの史跡があります。幕末から近現代に活躍した、高野長英・後藤新平・斎藤実は水沢三偉人として有名です。特産品としては、奥州藤原氏に起源を持つ南部鉄器・岩谷堂箪笥・秀衡塗などが有名です。伝統産業会館は南部鉄器の資料館ですが、水沢出身の大谷翔平選手の展示スペースがあり、大谷選手の右手が採寸により再現されています。握手できた右手は思いのほか小さく、驚きました。
正法寺と黒石寺

正法寺は南北朝時代に創建された東北地方随一の曹洞宗の名刹です。本堂、庫裏、惣門3棟が重要文化財に指定されており、本堂は、30×21mの大きな入母屋造りで、茅葺屋根の面積は720㎡で日本最大です。
黒石寺

黒石寺は729年に行基が開山した天台宗の古刹です。毎年旧正月7日に行われていた、下帯姿の裸の男たちが、五穀豊穣と無病息災を祈って薬師堂外陣で蘇民袋を奪い合う裸祭りの蘇民祭で有名でした。檀家さんの高齢化による担い手不足のために、地域外からの参加者を受け入れ続けることが困難になったとして、令和6年に1,000年の伝統に幕を下ろしました。蘇民袋を模したお守りをいただいて帰りました。
鉛温泉

花巻市の西部、山あいを流れる台川と豊沢川沿いに12の温泉地があり、花巻12湯と呼ばれています。鉛温泉には深さが約1.25メートルもある日本で一番深い天然自噴岩風呂「白猿(しらさる)の湯」があります。入浴すると足底から湧出しているのがわかりました。宮沢賢治は何度もここを訪れたそうで、高い天井を眺めながら立ち湯で英気を養ったのでしょう。
「腹の痛いのにもきけば傷もなおる。鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆ありという昔からの看板もかかっている。」(童話『なめとこ山の熊』宮沢賢治)
いわかがみ平

山岳紅葉風景の中で最も有名な「神の絨毯」の舞台、栗駒山(1627m)に登ります。シルバーウィーク時点でマイカー規制は始まっておらず、登山口の「いわかがみ平駐車場」まで車で行けました。中央コースを半分登ると、今年は紅葉が1週間早かったようで、思いがけず紅葉しはじめた木々が迎えてくれました。
二百名山「栗駒山」

この日は台風が北関東沖を北上中で、強い西風が霧や雲を山頂に運び続けていました。晴れることを期待しつつ山頂までの標高差500mをゆっくり登ります。3枚の写真は上から、山頂、山頂直下からの東栗駒方面、いわかがみ平方面です。一瞬の青空のタイミングを辛抱強く待って撮影しました。晴れていれば山頂から北西には火口湖の昭和湖や素晴らしい濁り湯の須川温泉、遠くには、早池峰山、鳥海山、月山、蔵王山など360度の展望が拡がるのですが、次回のお楽しみとしましょう。
「神の絨毯」のプロローグ

10月に入るとSNS上に「神の絨毯」と言われる鮮やかなグラデーションの紅葉写真がたくさん投稿されていました。栗駒山は宮城・岩手・秋田3県境の山で、3連休以上でないと行けません。紅葉のプロローグとはいえ、幸せな遭遇体験でした。
青根温泉「湯元不忘閣」

栗駒山から2時間のドライブで青根温泉に移動しました。伊達政宗はじめ、代々の伊達藩主が入浴した蔵王山麓にある温泉です。建物は再建ですが、天文15年(1546)に作製されたという浴槽の石組は当時のままで、伊達政宗が入った湯船の石に腰かけて「独眼竜政宗」を想う体験は格別でした。本館の客室から庭の左に「離れ」、右に「青根御殿」が見えます。関ケ原合戦後の1606年(所説あり)、青根御殿に宿泊した政宗がこの温泉に感動し、「不忘閣」と名づけたことが名前の由来だそうです。
朝食後に女将さんの案内で青根御殿見学のツアーがありました。伊達騒動の原田甲斐を忠臣として描いた山本周五郎の「樅ノ木は残った」の一部は青根御殿の一室で執筆されたそうで、大河ドラマでの平幹二朗さんの鬼気迫る熱演を思い出しました。
みやぎ蔵王こけし館

シルバーウィーク最終を青根温泉にしたのは、伊達政宗ゆかりの湯宿と、このこけし館の存在でした。こけしは江戸時代後期に東北の温泉地で子供へのおみやげとして木地師が造り始めました。青根温泉の南隣、遠刈田温泉の遠刈田こけしがこけし発祥の地と考えられています。地図を見ると、北には、作並と鳴子、南には弥次郎と土湯、日本海側には、肘折、山形、蔵王高湯と地理的に主な産地の中央です。遠刈田系こけしの特徴は、やや大きめの頭に切れ長の目、胴体は重ね菊がいっぱいです。





