わくや万葉の里 天平ろまん館

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仙台から北東へ自動車で1時間、涌谷町にあるこの施設は平成6年(1994年)に開館しました。長大な建物の丹塗りの柱と天平様の瓦は平城宮の宮殿を思わせます。歴史館では、パネル・発掘資料・文献を駆使して、最古の金産出地の歴史、聖武天皇の廬舎那仏造立、金銅仏を完成させるための鍍金技術、産出地の比定、比定に重要な役割を果たした大伴家持の歌、現代における金の活用、が展示されています。

百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)による陸奥国での産金

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天平21年(749年)陸奥国守・百済王敬福が小田郡(宮城県遠田郡湧谷町)で砂金を発見し、黄金900両(約13kg)を奈良の朝廷に献上しました。遡ること約百年、660年に百済(くだら)は唐と新羅(しらぎ)の連合軍に攻められて滅亡し、百済最後の義慈王の息子善光は日本に亡命、敬福はその子孫です。百済からの亡命者は金についての知識があり、日本での産金に大きな力を発揮したのです。

奈良大仏の鍍金

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 ここには砂金採り体験施設やレストランも併設されています。このガイダンス施設から徒歩数分の黄金山神社の脇の沢からは今も少量の砂金がとれるそうです。

聖武天皇が大仏造立を命じた当時の日本では、金は殆ど産出せず、供給を輸入に頼っていました。大仏の鍍金のために全国で探索が行われ、陸奥国遠田郡涌谷で金が採掘されると、聖武天皇は神仏の奇跡であるとして天平から天平感宝へ改元しました。

金メッキのやりかたは、アマルガム法で、水銀と金を混ぜたペーストを銅仏(大仏)に塗ってから加熱し、大仏の表面に金を定着させました。現在の奈良の大仏は銅に生じた緑青で黒褐色ですが、完成直後は金メッキの金色でした。平山郁夫の陶板画「大仏開眼供養記図」が天保勝宝4年(752)開眼供養時の金色の大仏を描いています

大伴家持の万葉歌

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聖武天皇は産金の報告に接して「陸奥国に金を出だす詔書」という詔を下し、神仏・諸臣に謝意を表し、詔の中で大伴氏の朝廷への貢献に言及します。詔を越中で読んだ大友家持は感激して長歌および反歌を詠み、後に自ら編纂した万葉集18巻に記載します。三首の反歌の最後が有名で、黄金山神社参道の万葉歌碑に記されています。

「天皇(すめろき)の御代(みよ)栄えむと 東(あづま)なる 陸奥(みちのく)山に 金(くがね)花咲く」

大伴家持のこの歌は長歌の中でもかなり長いもので「葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖(すめろき)の」で始まり、中間部に「海行かば水漬く屍(みづくかばね)山行かば草生す屍(くさむすかばね)大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ」があります。この部分は、武門の家柄である大伴氏の言立、すなわち家訓なのですが、昭和12年に元東京音楽学校(東京芸大)教授の信時潔の作曲による「海ゆかば」が発表されると、美しいメロディーと厳かな曲調で多くの人に愛唱されました。芸術的・文化的には讃美歌的で格調たかく、戦死した兵士の遺族が鎮魂歌として聞けば、胸をうつメロディーです。しかし、大伴氏が主君筋である大王家にへりくだる言立を、戦意高揚を意図して依頼された歌曲の歌詞に持ち込み、玉砕を正当化し若者を特攻に駆り立てる役割を果たしてしまいました。藤田嗣治の絵画「アッツ島玉砕」も胸打つものがありますが、ポピュリズムと軍国主義に逆らえず製作した点は共通です。優れた作品を複雑な思いで鑑賞しなければならないことは実に残念です。

黄金山神社

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聖武天皇は産金関係者に位を授け、その1人、日下部深淵は自身が神主であった神社を黄金山神社と改めました。神社の後方に仏堂も建立されますが、時代とともに神社も仏堂も朽ち果て、この地が最古の産金地であったことは忘れ去られてしまいます。江戸時代に伊勢型紙の商人で国学者の沖安海という人物が、史料と出土品から涌谷のこの地が最古の産金地であったと唱え、神社を再建します。昭和32年、地元の郷土史家、佐々木敏雄氏の尽力で、東北大学が本格的な発掘調査を実施し、神社の基壇と根石、その後方から天平瓦と六角推の宝珠が出土し、神社と六角円堂の存在が証明されました。昭和42年、この一帯は、国史跡「黄金山産金遺跡」に指定されます。

あゝ鳴子のどこかに私を待っているこけしがいる

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 鳴子といえば、温泉と鳴子峡とこけしが有名です。白浜や有馬のように火山を伴わない温泉もありますが、鳴子温泉の背後には鳴子火山群があります。温泉街から山頂部へむかう細い車道をドライブすると、強酸性のゆえにエメラルドグリーンの火口湖である潟沼湖畔に到着しました。噴気地帯を横に見て、左に見える外輪山の一つの中ノ岳まで歩いて25分、山頂には私を待っているこけしがいました。

鳴子のこけし

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 鳴子の町には多くのこけし工房があり、こけしポストも有名です。「こけし」の語源ですが、木を削ったから木削子で「こげし」、また江戸時代の子供の髪型に芥子(けし)坊主というものがあり、小芥子で「こけし」などの説があります。江戸時代後期から東北地方の農民には湯治文化が生まれ、お椀などをろくろで制作していた木地師が、子供玩具および子供の厄除け守りの「こけし」を湯治みやげとして制作しはじめ、やがてこけし専門の「工人」が生まれたようです。

鳴子温泉と温泉神社

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 鳴子火山群の潟沼には噴気地帯があり、気象庁指定活火山です。火山性温泉で白濁の硫黄泉やうなぎの湯といわれるアルカリ泉など、多くの泉源があります。837年に噴火活動に伴い温泉が流出という記載が続日本後紀にあり、その年に温泉神社が建立されました。神社の境内には、こけし研究家の深沢要の詠んだ歌碑があり、彼の蒐集したコレクションは鳴子温泉街近くの「日本こけし館」で展示されています。

 「みちのくは 遥かなれども 夢にまで こころの山山 こころのこけし」

峠駅と力餅

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 福島から米沢、山形、秋田を経て青森に至る奥羽本線の福島米沢間は明治32年(1899)に開業します。古くは板谷街道(米沢街道)の難所でもあった板谷峠は標高626m、当初はスイッチバック方式で引き込み線に峠駅がありましたが、電化に伴い現在の峠駅は本線に移動しています。駅を覆うスノーシェードが独特の雰囲気です。立ち売りの力餅は峠駅の名物ですが、峠の茶屋でも買い求めることができました。

吾妻山の秘湯

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板谷峠から吾妻山(吾妻連峰)の山頂台地方向に未舗装1車線幅ですれ違い困難な曲がりくねった道路が、鉱山があった滑川温泉を越えて伸びています。渓谷沿いのわずかなスペースに駐車し最後は坂道を歩いて標高1250mの姥湯温泉に到着です。

標高1250mの絶景露天風呂

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 こんな山奥までよく道路をつくったものだと思います。左右はむき出しの岩肌で渓谷のあちらこちらから湯が沸いていて、白濁硫黄泉の3つの露天風呂が並んでいます。「日本秘湯を守る会」加盟旅館の中でも屈指の秘湯です。

新発田城

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 近江源氏の佐々木盛綱がこの地の地頭となり子孫に新発田氏がいます。戦国時代末期、新発田一族は信長と同盟し上杉景勝に反旗を翻しますが、信長亡き後、秀吉に臣従した景勝に滅ぼされてしまいます。秀吉が天下人になると丹羽長秀の家臣、溝口秀勝が6万石で入封し、溝口氏は明治まで存続。現在の城は溝口氏の築城によるもので、日本百名城に選定されており、表門と移築された二の丸隅櫓は重要文化財です。

水滸伝(すいこでん:大阪市立美術館)

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 水滸伝は小学生の時に横山光輝の漫画を読みました。三国志演義、西遊記、紅楼夢とともに、中国古典四大名著とされます。水滸は「水のほとり」、豪傑たちが拠点とした梁山泊(りょうざんぱく)を意味します。12世紀の北宋末期に、様々な事情で社会からはじき出された宋江はじめ108人の好漢(豪傑)が梁山泊に集い、汚職にまみれ腐敗した官吏に立ち向かい、官軍となって国を救うという物語です。

 江戸時代に「通俗忠義水滸伝」として翻訳され、山東京伝「忠臣水滸伝」、曲亭馬琴・葛飾北斎「新編水滸画伝」などでブームとなり、写真の歌川国芳の浮世絵「通俗水滸伝豪傑百八人美之一個」が武者絵というジャンルを開拓します。

水滸伝リメイク

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中国ではもちろん京劇となりました。右中は杉本健吉による吉川英治「新水滸伝」の挿絵で、酔った宋江が「反詩」を壁書するシーン。右下は前衛芸術グループ「具体美術協会」の一員で、ロープにつかまり足で描く技法で有名な白髪一雄の「梁山泊」です。北方健三の「水滸伝」は織田裕二の宋江、反町隆史の晁蓋で、TVドラマ化され7話まで放映され、続編は2027年放送予定とのことです。なお、曲亭馬琴は水滸伝に刺激され、後半生28年をかけて「南総里見八犬伝」106冊を書きあげます。

南都仏画(奈良国立博物館)

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 平安京遷都後に平城京は「南都」と呼ばれ、南都の絵仏師が描き継いだ仏教絵画を「南都絵画」と総称した展覧会です。日本仏画の黎明として法隆寺金堂壁画の再現展示に始まり、薬師寺の国宝「吉祥天像」の小さなサイズに驚きます。ボストン美術館から多数の仏画が里帰りしており、東大寺にあった「法華堂曼荼羅」(ボストン美術館)など、国外に流出していなければ、国宝指定と思われる仏画が並んでいました。

スリランカカレー

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 奈良の旧大乗寺庭園の西側にあるスリランカ料理店の「ラサボジュン奈良」です。中央にピラウやビリヤニがあり周囲に色鮮やかな肉や野菜の複数の小さなカレーが並びます。ココナッツミルクやモルジブフィッシュ(乾物)やサンボール(チャツネ)など、スリランカでいただいたライスアンドカレーそのままがここにあります。

大絶滅展(大阪市立自然史博物館)

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 絶滅といえばニホンカワウソやトキ、大絶滅といえば恐竜が思い浮かびますね。この展覧会の狙いは、大量絶滅の多角的な理解、生命繁栄のプロセスの理解、大絶滅の教訓と未来への予測、とのことで、かなり専門的な内容でした。約5億年前、カンブリア紀の赤いアノマロカリスは生物史上最初期のハンター、オルビドス紀の青いエーギロカシスはプランクトンを食べます。次の時代シルル紀との間の約4億5000万年前のO―S境界(オルビドス・シルル)が最初の大絶滅でこれらの節足動物は絶滅してしまい、シルル期にはウミサソリが繁栄します。

生命史のビッグファイブ

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 巨大隕石の衝突による地球環境の激変で恐竜が絶滅したことは今や定説となりましたが、多種類の生物が同時に絶滅する大絶滅(大量絶滅)は多細胞生物が現れた6億年前以降に5回あり、これをビッグファイブと呼びます。ディメトロドンは約2億9000万年前の哺乳類に近い生物ですがペルム紀末に絶滅。絶滅期の環境を生き延びた生物が次の時代に繁栄することとなります。恐竜を滅ぼした隕石衝突以外の前4回の大絶滅の原因は超巨大火山活動であったという証拠が紹介されていました。

 現在、環境破壊や地球温暖化のせいで過去の大絶滅を超えるスピードで生き物が減っており、人間の活動による「第6の大絶滅」から地球の未来を守るための方策をみんなで考えようというのが国立科学博物館の先生方からのメッセージでした。

大阪市立自然史博物館(常設展)

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 常設展は「身近な自然」「地球と生命の歴史」「生命の進化」「自然のめぐみ」「生き物のくらし」の展示スペースがあり、大阪湾に漂着したクジラ骨格、ナウマン象とオオツノシカの再現展示、マチカネワニやたくさんの恐竜骨格など、子供から大人まで楽しめます。自然に関するあらゆる展示があるのですが、三池炭鉱から運んできた大きな石炭、様々な宝石の原石、ジャガイモ・サツマイモ・トマト・トウモロコシ・カボチャ・トウガラシなどが新大陸由来であること、などが印象に残りました。長居植物園ではひまわりが満開でした。