大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)

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 明治政府は海軍力の整備を国家戦略に位置付け、呉・佐世保・横須賀・舞鶴の四大海軍工廠を設立しました。集積、蓄積された最先端技術は三菱・石川島・川崎・日立・三井などの大手造船所に引き継がれています。10分の1サイズの戦艦「大和」、零式艦上戦闘機と人間魚雷「回転」の実物資料が展示されています。本年4月のリニューアルで歴史と科学の解説がわかりやすくなったようです。特攻隊員の遺書や遺品の展示もあります。愚かなポピュリズムを嘆かずにはいられません。

呉海自カレー

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 海上自衛隊呉基地に所属する艦艇で食べられているカレーの味を忠実に再現した23種類のカレーを呉市と周辺の飲食店で提供しているのが呉海自カレーです。ミュージアム近くの「呉ハイカラ食堂」のテッパンカレーは鉄板にビーフカレーとクジラカツと肉ジャガと牛乳がのっています。明治はじめ、海軍はイギリス式の兵式を採用し、脚気対策などの兵食改革でもイギリス海軍のカレーを採用しました。土曜の昼食メニューでしたが、週休2日制導入以降は金曜のランチメニューとなったそうです。

海上自衛隊呉資料館

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別名「てつのくじら館」は、はりぼてと思ったのですが、なんと2004年まで現役で使用されていた本物の潜水艦「あきしお」でした。長さは76.2mでジャンボジェット並みの大きさです。海上自衛隊の歴史、掃海艇の活躍、潜水艦での生活、実際の潜水艦の内部など、興味深く見学しました。

アレイからすこじま

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 アレイは英語で小道、昔あった小さな鳥小島(からすこじま)は埋め立てられ旧海軍呉軍港の岸壁になりました。背後には旧海軍工廠のレンガ造りの建造物が残っています。ここから、海自の艦艇と潜水艦を間近に眺めることができます。

戦国の庭 歴史館

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鎌倉幕府政所別当、大江広元の四男の所領が毛利荘(厚木市)でその子孫が安芸国吉田荘(安芸高田市)の国人領主、毛利氏となります。戦国時代、毛利元就は北東隣の吉川氏に次男の元春を、南西隣の小早川氏に三男の隆景を養子として送り込み、両家を乗っ取ってしまいます。そして、親子4人で尼子氏や大内氏・陶氏を滅ぼし、中国地方の覇者となります。

「戦国の庭 歴史館」は、吉川氏の本拠地である大朝荘付近(北広島町)の国史跡「吉川元春館跡」に隣接した展示施設です。長く居城だった小倉山城、万徳院跡、吉川元春館跡の発掘調査成果や整備内容・出土品などを展示しています。

戦国大名吉川氏

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吉川(きっかわ)氏は、藤原南家工藤流で駿河国入江荘(清水)の吉川に居住し、1221年承久の乱の恩賞で大朝荘(北広島町大朝)の地頭となり、1313年に土着しました。1368年、石見国三隅氏庶家の石見吉川氏が大朝新庄(北広島町新庄)の地頭となり、本家の吉川氏にとって代わり、小倉山城を本拠とします。百数十年後、石見吉川系の吉川氏は尼子派と大内・毛利派に分裂してしまい、1547年毛利元就の次男、元春が養子として吉川元春を名乗り、日山城(ひのやまじょう)に入場、3年後に元当主の吉川興経は謀殺され、藤原南家工藤流吉川氏の嫡流は断絶します。

吉川氏伝来の国宝太刀銘為次(狐ヶ崎)写しが展示されています。1200年「梶原景時の変」の際、駿河の狐ヶ崎で吉川友兼がこの太刀で景時の一族を討ち取りました。為次は備中の古青江派の刀工、現品は岩国市の吉川資料館が所蔵しています。

国史跡吉川元春館跡

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吉川元春は、天正10年(1582)備中高松城の戦いの後、息子に家督を譲り、居城日山城の南西麓に城館をつくり1584年に隠居します。しかし、秀吉の九州平定戦で、やむを得ず出陣した先の小倉城で1586年に病死します。後嗣の吉川広家は豊臣政権下で月山富田城に移封され、館は廃墟に。しかし農地や森になったおかげで遺物が良好な状態で地下に保存され、発掘後は国史跡に指定されました。特徴的な石垣、池のある庭園、復元された台所の建物があります。なお、1600年の関が原の戦いで西軍は敗れますが、吉川広家の東軍への貢献で、毛利家は周防・長門に残ることができ、吉川家は周防国岩国に転封されます。

小早川隆景居城 新高山城(にいたかやまじょう)跡

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 広島県三原市本郷に小早川隆景が本拠としていた新高山城跡があります。続日本百名城に指定されています。標高197.6m、本郷の標高が10mなので比高差は187mです。沼田川(ぬたがわ)右岸(西側)にあり、川側は急峻な崖になっています。なお、ニイタカヤマノボレは台湾の玉山(ニイタカヤマ)を指しています。

匡真寺(きょうしんじ)跡

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登山者用の駐車場からすぐの登山道入口に説明版があります。桓武平氏良文流は平将門のいとこ筋であり、子孫に相模国湯河原早川荘の土肥実平がいます。息子の遠平は小早川村に居住していたので、小早川氏を名乗ります。平家追討の恩賞で沼田荘の地頭職を得て、源義家の弟、新羅三郎義光の孫、平賀景平を養子として、沼田小早川氏の歴史が始まります。つまり沼田小早川氏は血筋としては清和源氏となります。

15分ほど登ると広い台地に到着。天正5年(1577年)毛利元就の七回忌と母親の33回忌のために小早川隆景はここに「匡真寺」を建立しました。本拠地が三原城に移ると寺は三原へ「宗光寺」として移転し、匡真寺は廃絶します。

中の丸(二の丸)跡

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 さらに10分ほど登ると中の丸(二の丸)です。山頂部は削平され多くの郭が設けられています。南東には沼田川の左岸に本郷の町と河口方面には三原市街も見えます。

本丸跡

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 中の丸よりも本丸は数m高く、石垣は三原城に運ばれたとのことですが一部が残っています。本丸は広く、建物礎石もあり、永禄4年(1561)に、父元就と兄隆元が10日間滞在し、会所、表座敷、茶の湯の間などで、能楽、連歌、蹴鞠、隆元による太平記講義等々を楽しんだという記録が残っています。能楽は田村 卒塔婆小町 三輪 羽衣 西行桜などです。匡真寺跡の歌碑には連歌が記されていました。元就の発句「若木より 見ん世も久し 花の春」、隆景の脇句「霞の月に かはす松か枝」、第三句は隆元の「山風は 長閑なる夜の 明初て」

詰の丸 石鎚権現

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 本丸からさらに東にすすむと「詰の丸」があり、先端は沼田川をのぞき込む絶壁となっており、180度の展望が拡がります。近世に持ち込まれたと思われる多数の石仏や地蔵、石塔があります。石鎚権現という文字も見えます。沼田川側の絶壁には複数の鎖場があり、石鎚修験の人たちが小早川隆景の「夢の跡」を修験のお山として信仰したことは、この山の魅力の賜物だと共感できます。

詰の丸からの絶景

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沼田川をはさんで対岸の山は、隆景以前の小早川氏が建永元年(1206)から隆景による新高山城への本拠の移動(天文20年1551)まで約350年の長きにわたり居城とした高山城跡です。北から南に流れる沼田川、本郷の町、下流の三原市街に加えて、沼田川左岸に山陽本線の線路、そして真下には高山城と新高山城をトンネルで貫く山陽新幹線の沼田川橋梁が見え、新幹線を撮影することができました。写っているボックスのボタンを押すと、新高山城や小早川隆景についての音声説明が流れました。

1557年に大内氏を1566年に尼子氏を滅ぼすと、隆景は1567年に水軍を重視して三原城を築きはじめ、1582年の備中高松城の戦いで秀吉と和睦した後、瀬戸内海からの侵攻に備えて三原城に本拠を移します。その後の豊臣政権下で新高山城と高山城は存在価値がなくなり、1596年に廃城となってしまいます。

三原市歴史民俗資料館

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 三原駅の少し北側にあります。文化と祭り、原始・古代の三原の次の展示室では、小早川隆景の業績や新高山城および三原城を紹介しています。「西国のことは隆景に任せておけばすべて安泰(秀吉)」「日本では珍しいことだが伊予には騒動も反乱もない(ルイスフロイス)」と絶賛され、黒田官兵衛は隆景の訃報に接して「日本に賢人はいなくなった」と惜しみます。子供はなく、養子に迎えたねねの甥が小早川秀秋です。

三原城

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 左上の写真のように三原城は水軍基地の性格を備え浮城と呼ばれます。江戸時代には広島藩の支城として存続しますが、明治維新後、南側の石垣は港湾用に持ち去られ、山陽本線と国道が敷設されます。さらに新幹線建設時に高架が本丸の上を覆いました。線路山側ロータリーにある隆景像が時代の流れを眺めています。

米山寺 小早川家菩提寺

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 仁平3年(1153)に天台宗の寺として創建、嘉禎元年(1235)小早川4代茂平が念仏堂を建立して氏寺としました。以来、小早川家の菩提寺で初代実平(土肥実平)から17代隆景までの宝篋印塔20基の墓が並んでいます。左奥の宝篋印塔は一番大きく、重要文化財指定です。寺の宝庫には絹本著色小早川隆景像(国の重要文化財)があります。小早川隆景の墓は右の最前列にあります。

 大相撲に毛利3兄弟ゆかりの四股名をもつ若隆元、若元春、若隆景の3兄弟がいます。5月場所で関脇若隆景は優勝しました。しかし現在若隆景関は怪我休養中です。早く元気になってまた活躍してほしいですね。

清水宗治自刃の地

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 秀吉軍と毛利軍が激突した備中高松城水攻めの地です。上は二の丸から本丸に向かう木道、真ん中は本丸にある清水宗治の墓、下は船上で宗治が切腹した場所です。

浮世をば今こそわたれ武士(もののふ)の名を高松の苔に残して(清水宗治辞世)

備中高松城跡

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 信長に中国攻めをまかされた秀吉は備前の宇喜多家を味方につけ、兵糧攻めにより三木城、鳥取城を落とし、天正10年(1582)に備中高松城に迫った。西から毛利隆元はじめ毛利全軍が駆け付けたが、黒田官兵衛の献策により堤防を築き足守川の水を引き入れ、高松城を水攻めにしました。

備中高松城址資料館

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 高松城の戦いの全貌が解説されています。清水宗治や家臣の思い、本能寺の変による信長の死を隠しての秀吉側の主導による和睦の成立、和睦後に毛利方も信長の死を知りますが、小早川隆景が和睦を守る判断をしたことなど興味深い展示でした。

東条城と岡山陣屋跡

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 西尾市一帯には平安時代に荘園・吉良荘が置かれ、矢作川を境に西条と東条に分けられました。吉良の由来は、付近から雲母(きらら)が採れたからということです。足利氏3代の義氏は承久の乱(1221)の戦功で三河守護となります。庶長子を西条城(後の西尾城)にその弟を東条城に置き、吉良氏が発祥しました。桶狭間後に徳川家康が西条城や東条城を攻撃し、吉良家は居城を失います。江戸時代には旗本となり吉良町の岡山陣屋付近に200石の領地をもちますが、地元で名君と親しまれた吉良義央は赤穂事件で浪士に殺されてしまい吉良家は改易となります。

人面文壺型土器

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 魏志倭人伝に「男子無大小皆鯨面文身」男は年齢の大小なく皆、顔と体に入れ墨をしている、という記述があります。安城市の亀塚遺跡から1977年に発掘された弥生時代後期(1700年前)の壺で、本年(2026年)重要文化財に指定されました。縄文時代は抜歯の風習、弥生時代は顔や身体に入れ墨・・昔に生まれなくてよかった・・。

安城城跡

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 松平家は岩津城から安城城に進出、さらに岡崎城へと本拠を移しながら三河を支配していきますが、天文9年(1540)から織田信秀と松平広忠が争奪戦を繰り広げます。信広(信長の兄)と竹千代(のちの家康)の人質交換をもって10年にわたる戦いは終結します。城跡は寺、神社、そして安城市歴史博物館となっています。

吉良氏・今川氏・一色氏、発祥の地

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鎌倉時代に三河守護となった足利氏の子孫から吉良氏、今川氏、細川氏、一色氏、仁木氏が誕生します。上下の写真は西尾資料館展示と西尾城(西条城)で東条城と並んで吉良氏発祥の地です。吉良氏の名前は吉良荘から。今川氏発祥の地碑は今川荘(西尾中学校付近)にあり、一色氏発祥の地碑は、西尾市一色町にあります。今川氏は駿河の大名となり、今川義元が有名。一色氏は室町時代の四職の一角を占めますが、衰退。末裔に徳川家康の側近、黒衣の宰相と称された以心崇伝がいます。

湯村温泉

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 久しぶりに湯村温泉に宿をとりました。夢千代日記の銅像や吉永小百合の手形を見て、湯量豊富な荒湯は「湯村断層」という花崗岩の活断層から98度の源泉として湧き出しています。ゆでたまごをつくりました。

シワガラの滝への登山道

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 宿泊した翌朝、シワガラの滝を目指しました。9号線を鳥取方面へ進み、県境手前で上山高原や扇ノ山に続く林道を登っていきます。国道から15分ほどでシワガラの滝登山口駐車場に到着し、トレランシューズで鎖やロープのある急斜面の登山道を下って沢へ降り、沢シューズに履き替えて、沢を歩きました。右岸の岸壁から水が流れ落ち、両岸迫りゴルジュ地形になると、暗く恐ろしさを感じる洞窟があらわれます。

シワガラの滝1

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兵庫県新温泉町、鳥取県との境界に聳える扇ノ山(1310m)から流れる小又川の上流域にあるシワガラの滝、落差は10mです。駐車場から1.2km。30分程度でつきました。100m未満の沢歩きですが、膝下まで水に浸かりますし、洞窟内は滝のしぶきでミスト状態です。洞窟に少し入ると向かって右側から滝が洞窟の中に落ちています。

シワガラの滝2

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 前日は曇りでしたが、この日は晴れで陽光がふりそそぎ、暗い洞窟から眺めると滝と壁の植物の緑が現実のものとは思えないほどの美しさです。滝の壁で見られる植物は湿潤で流れの激しい環境に適応した渓流植物や着生植物であり、イワタバコ、ゼニゴケ、ハイゴケなどが代表的とのことですが、正確な植物名はわかりません。

シワガラの滝3

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 ドーム型の洞窟地形はジオパークの解説によると滝による浸食でできたとされていますが成り立ちのイメージがわきません。洞窟内部は暗くムカデが落ちてきそうな安山岩の暗い色調の岩壁と、地質のせいか濁った川の水のせいで、不気味な雰囲気です。見える景色は美しいのですが、長居したい場所ではありません。ミストに注意しながら携帯で撮影、後で写真を見ると、その時の印象よりも美しく驚いています。