雲仙普賢岳(うんぜんふげんだけ)より平成新山

雲仙普賢岳(うんぜんふげんだけ)より平成新山

10月の連休、雲仙普賢岳(標高1,359m)にやってきました。長崎県の島原半島中央部にそびえる火山です。むこうは平成新山で、新山の中央部は突出しており、噴気が見えます。

平成新山

平成新山

1991年(平成3年)6月の火砕流で多くの人命を奪った平成新山は、成長により、標高が1,483mと普賢岳より高くなった、日本で最も新しい山です。全体が溶岩ドームで数か所から噴気があがっています。登山コースは西側を周回するように作られており、溶岩ドームに上ることはもちろん禁止されています。

登山口から普賢岳と平成新山

登山口から普賢岳と平成新山

仁田峠駐車場および雲仙ロープウェイ乗り場のあるここが登山口です。左は妙見山でロープウェイの山上駅が見えています。右奥が普賢岳でその左にほんの少し頭を出しているのが平成新山です。ここから平成新山までは1時間20分でした。

原城跡より雲仙普賢岳

原城跡より雲仙普賢岳

島原の乱で有名な原城址の天守台から、広い台地が二ノ丸で、雲仙普賢岳を遠望できます。ここから、車で5分ほどのところに南島原市有馬キリシタン遺産記念館があり、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つ「原城跡」について学ぶことができます。

原城跡の天草四郎像

原城跡の天草四郎像

イエズス会(ポルトガル)とキリシタン大名と信徒の連合による反乱を恐れた秀吉や徳川幕府はキリスト教を弾圧します。天草四郎はキリシタン大名小西行長の家臣の息子で、関ヶ原後の島原藩の苛性により、追い込まれた領民とキリシタン大名の旧家臣による一揆(蜂起)のシンボルです。3か月の籠城戦も空しく、一揆勢約3万人は皆殺しにされました。

名護屋城跡

名護屋城跡

名護屋城は秀吉が朝鮮出兵のために佐賀県の松浦に築いた城です。右が天守台で左の海の向こうが朝鮮半島です。往時の天守は5重7階、周囲には全国の大名の陣屋が立ち並び、20万の兵が高麗へ渡り、10万の兵がこの周辺に在陣していました。

名護屋城博物館

名護屋城博物館

名護屋城跡に隣接した佐賀県立の博物館です。原始・古代から近現代まで、日本列島と朝鮮半島の交流史がわかりやすく展示されています。写真は秀吉による朝鮮侵略時の軍船で、手前が日本の安宅船、奥が高麗の亀甲船です。恥ずべき侵略戦争の後、徳川時代には朝鮮通信使を日本の人々が熱烈に歓迎した様子が展示されており、今後もそうでありたいと強く感じました。

みんなのミュシャ

みんなのミュシャ

京都文化博物館の「みんなのミュシャ」展です。数年前、新国立博物館にミュシャのスラブ叙事詩の展覧会があり、非常に感銘をうけました。画家の前半のアールヌーヴォーの旗手としての作品群には、これまであまり興味がなかったのですが、鑑賞してみると、その美しさ、繊細さに驚きました。ショパンはただ一人、ミュシャもただ一人ですね。

佐竹本三十六歌仙絵

佐竹本三十六歌仙絵

京都国立博物館です。旧秋田藩佐竹家が諸事情により売却しようとしたが、当時35万円(現在の評価額50億円)で国内に買い手がなく、海外流出が危惧されたために「切断」して当時の日本の36名の財界人らに分割売買されたことで有名な絵です。「分割」といっても、元々1枚ずつ書かれたのですから、正確には分離ですね。しっかり鑑賞するためには和歌の知識が必要です・・・。