八幡平アスピーテラインから岩手山
青森・岩手・宮城の百名山5座を登るゴールデンウィークの旅、5座目は岩手山です。八幡平への往路に眺めた北側からの岩手山は、「南部片富士」の名の通り、左側は富士山そっくりです。また、正面は焼走り溶岩流、右側は西岩手火山のカルデラ壁です。
岩手山馬返し登山口
チャグチャグ馬っこで有名な滝沢市は盛岡市の北隣りです。滝沢市の馬返し(標高633メートル)を登山口とする柳沢コースは、古くから信仰登山の表参道として使われた岩手山への代表的なコースです。奥に詩碑がありました。
岩手山 いただきにして ましろなる
そらに火花の涌き散れるかも 宮沢賢治
1917年(大正6年)、盛岡高等農林学校3年の夏、学友の保阪嘉内(『銀河鉄道の夜』のカンパネルラのモデル)とご来光を見ようと岩手山に登った時、夜明け前の空の下、2人のかざす松明(たいまつ)の炎(二人の青春の炎?)を詠んだ歌です。
5合目
樹林帯の夏道は3合目から雪道となり、4合目からは急な雪の斜面となりました。スリップすると滑落しそうな、ちょっと怖い斜度です。先行者の踏跡を参考に、キックステップで慎重に登ります。
7合目
7合目で斜面はややゆるやかになり緊張感から解放されます。正面は一昨日登った早池峰山、眼下は盛岡市街です。
7合目から山頂部
山頂部外輪山が見えてきました。蔵王、八幡平、岩木山、早池峰と4日連続で登りましたが、昨日は山頂部風速20mの予報で断念。中1日、本日天気晴朗にして風穏やか也。
8合目避難小屋
朝6時から3時間かけて山頂部に登りつきました。立派な避難小屋です。おにぎりを食べて一休みしました。外輪山の左端の「お鉢の火口縁」に向かいます。
鬼ヶ城
外輪山を半分登ると西岩手山が見えてきました。西岩手山の活発な火山活動は30万年前から12万年前まで。カルデラ噴火と大規模な山体崩壊が少なくとも7回とのことで、鬼ヶ城の姿は20万年近い火山活動で形成された西岩手の外輪山です。
お鉢の火口縁
東岩手の外輪山の「お鉢の火口縁」まで登ってきました。早池峰山と盛岡市街を望みます。お山参詣の碑が建っています。ここから山頂方向には石仏が並んでいます。
火口縁より山頂
右が中央火口丘の妙高山、左が外輪山の最高地点で薬師岳、すなわち岩手山山頂です。
岩手山お鉢
富士山型の火山にお馴染みのお鉢です。中央火口丘(妙高山)のえぐれているところが御室火口で、江戸時代、1686年の大噴火はここです。盛岡市街まで降灰したそうです。
岩手山山頂
10時15分に登頂です。標高差1,400mを4時間弱で頑張りました。岩手山2,038m、日本百名山87座目です。左は八幡平。残念ながら岩木山や八甲田山は見えません。
山頂から西岩手火山
眼下に西岩手火山が広がります、左から鬼ヶ城、続いて、雪で白い小さな御釜湖と大きな御苗代湖、これらは火口湖です。右が屏風尾根で正面中央の黒倉山(1,570m)までが西岩手火山のカルデラです。宮沢賢治は敬虔な仏教徒として岩手山へ三十回以上登拝登山をし、火山への畏敬を詩で表現しています。前半は西岩手火山、後半は東岩手のお鉢です。
岩手山
そらの散乱反射のなかに
古ぼけて黒くゑぐるもの
ひかりの微塵系列の底に
きたなくしろく澱むもの
「心象スケッチ 春と修羅」より 宮沢賢治
栗駒温泉露天風呂
日本200名山、栗駒山の登山口である須川高原温泉に宿泊。外湯訪問した夕暮れ時の露天風呂は貸し切り状態でした。
鳥海山の夕日
象潟あたりに夕日が沈みます。こんな絶景はめったに見られないとのことでした。翌日、栗駒山に登る体力は残っていませんでした。「奥の細道」の旧跡を訪ねることにしました。
高館義経堂
「三代の栄耀一睡のうちにして、(中略)まづ高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。(中略)さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる」
何という名文でしょうか。義経堂とその右に北上川を眺めつつ、スマホで「奥の細道 平泉」を読みます。贅沢な時間でした。義経堂の中に義経のお顔が見えます。
夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡 芭蕉
中尊寺金色堂の旧覆屋
「光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、(中略)頽廃空虚のくさむらとなるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨をしのぐ。しばらく千歳の記念とはなれり。」芭蕉が見たこの覆屋は鎌倉時代のもので、昭和の覆屋建設に伴い、上方に移築されました。芭蕉の訪問は奥州藤原氏滅亡から500年後。500年間(今や800年間)、五月雨など風雨から光堂(金色堂)を守った人々の思いに誰もが感動せずにはおれません。
五月雨の 降り残してや 光堂 芭蕉
鳴子 日本こけし館
鳴子のこけしは、首を回すとキュキュッと音がしますが、頭部を胴部にはめ込む独特の技法のためです。ここでそのロクロの実演を見学しました。工人さんの見事な技に見学者一同、拍手喝采でした。鳴子系こけしは、前髪があって素朴な童女の顔立ち、胴体の模様は重ね菊など華やか、全体として洗練された美しさが感じられます。
尿前の関(しとまえのせき)
芭蕉と曾良は平泉・一関から、秀吉時代に伊達政宗が居城とした岩出山へ南下。鳴子を過ぎ、尿前の関を通過、尾花沢を目指しますが、奥羽山脈越えを前に風雨で停滞。山の中のひどい家に宿泊して大変だったよ、と尿前の地名に絡めて「箸休め」の句を詠みます。江戸時代、人のおしっこは「シト」、家畜のおしっこは「バリ」と呼んでいたようです。
蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと 芭蕉
銀山温泉夜景
芭蕉は尾花沢中心部に逗留しますが、現在、尾花沢と言えば銀山温泉ですね。大正末から昭和初期の木造3層のノスタルジックな旅館が銀山川沿いに軒を連ねています。
尾花沢の涼し塚
旅の最終日、尾花沢市街の清風芭蕉記念館とこの涼し塚を訪ねました。清風はべに花で莫大な財を築いた山形商人で芭蕉の弟子でした。涼し塚の建つ養泉寺、元禄当時は格式の高い立派な寺で、清風の配慮で芭蕉はここに7泊して旅の疲れをいやしました。「ねまる」は、古語辞典によると、楽な姿勢でくつろぐ、という意味です。清風はじめ、尾花沢の人々の旅人への心配りに「我が家のようだ」と感謝の一句を残しています。
涼しさを 我宿にして ねまる也 芭蕉