嵯峨野の宝筐院
京都嵯峨野の宝筐院です。小さなお寺ですが京都で最も好きな紅葉の庭です。夢窓疎石の高弟・黙庵が中興開山し、黙庵に参禅していた室町幕府2代将軍足利義詮が伽藍を復興しました。義詮の死後、彼の院号である宝筐院が寺の名前となりました。
足利義詮と楠正行の墓
境内の奥に足利義詮と楠正行の墓が並んでいます。黙庵は弟子である正行が四条畷で戦死すると首級をここに運び手厚く葬りました。敵でありながらも正行を尊敬していた義詮は、臨終の際に正行の隣で眠りたいと遺言し、墓を造らせたとのことです。
パンとエスプレッソと福田美術館
嵐山の福田美術館の設計は箱根のポーラ美術館の設計等で有名な安田幸一氏です。庭の水盤は大堰川(桂川)に連なる水鏡のようで、渡月橋を借景にした贅沢なカフェです。美術館の入場者のみが入店できるので、ゆったりとした時間が流れています。
野ざらし紀行図巻
5月、芭蕉の最初の紀行文「野ざらし紀行」の自筆図巻を再発見したと福田美術館が発表しました。縦23センチ、長さは14.5mです。芭蕉が絵を描くとは知りませんでしたが、ほのぼのとした絵と美しい文字がバランス良く配置されています。絵巻の上には、該当する部分について、語句や背景の詳しい説明があり、素晴らしい解説でした。
水とりや
野ざらし紀行は、伊勢詣や伊賀上野への里帰りと京都や奈良の旧跡を巡る旅で詠まれた俳句を綴った紀行文です。文章は「二月堂に籠りて 水とりや 氷の僧の 沓の音」 修二会とお水取りが行われている二月堂と良弁杉、閼伽井屋等が、よくわかります。
山路来て
伏見西岸寺 任口上人に逢うて 我がきぬに ふしみの桃の 雫せよ
大津への山路を越えて 山路来て 何やらゆかし すみれ草
「山路来て」は伏見から大津への山路で詠まれました。芭蕉は山深さを描いています。
東大寺二月堂
令和5年(2023)は東大寺の開山、良弁僧正の1250年御遠忌です。良弁僧正(669~773)は、聖武天皇を支えて東大寺の創建に尽力し初代別当となりました。二月堂の前の杉は、文楽や歌舞伎「良弁杉由来」(ろうべんすぎのゆらい)の舞台です。大鷲にさらわれた赤子の良弁はこの杉にひっかかり、ここで育てられ、観音の導きにより、母と再会します。
手前の閼伽井屋の中には若狭井があり、修二会のお水取りでは、この井戸から水を汲んで
仏前にそなえます。野ざらし紀行図巻で、二月堂を鑑賞したので、久しぶりに訪問しました。
春日大社若宮国宝展
春日大社摂社の若宮神社の本殿(重要文化財)の20年に一度の御造替事業の完了と神宝や調度品などの新調を記念する特別展です。会場入り口には、青いガラス玉を連ねた瑠璃灯籠が吊り下げられていました。藤原頼通が1038年に瑠璃灯篭を寄進したという記録があるようです。国宝「金地螺鈿毛抜形太刀」(平安時代)と現代の人間国宝の皆さんが復元した「太刀」を見較べることができるなど、贅沢な特別展です。
春日荷茶屋(かすがにないぢゃや)
江戸時代の大和名所図会にも描かれている春日神社境内の荷茶屋の名物「万葉粥」です。食べたときはどうしてこんなに白いのかと不思議に思ったのですが、昆布出汁、白味噌仕立てとのことです。白味噌が上品な隠し味でした・・・。
巨勢山古墳群
御所市文化財課による企画展です。巨勢氏の群集墳と思っていたのですが、古墳時代中期前半までは葛城氏の首長墓である室宮山古墳の陪塚的性格の古墳、その後、円大臣が雄略天皇に殺された中期後半に一致して、葛城氏の墳墓とは形式や副葬品が異なり、ヤマト政権に仕えた渡来工人の墓と推察される等質的な古墳に変化し、終末期まで続くとのことでした。