富士宮8合目から宝永山
土曜診療の後、6時間のドライブで富士宮五合目駐車場へ。一般登山が禁止となる9月10日頃から11月初旬まで、マイカー乗り入れが可能です。仮眠して3時半に登山を開始、2時間で8合目付近まで来ました。宝永火口と宝永山の奥に御殿場、右は愛鷹山塊です。
八合目から日の出
標高2400mの5合目から3240mの8合目の小屋前に到着したところで相模湾の鎌倉のあたりから日が昇ってきました。正面に宝永山、相模湾の手前は伊豆半島、その右側は駿河湾です。ここまでは砂礫の登山道でしたが、ここから急坂で岩石が目立ちます。
ブルドーザー道
岩だらけですが、歴史もあり世界遺産でもあり整備された登山道でした。最上部が、がけ崩れ修復中のため通行止めでしたが、山小屋に物資を運搬するブルドーザー道が開放されており、快適に登れました。振り返ると駿河湾と伊豆半島の眺めが雄大です。
剣が峰
登山道は浅間大社奥宮のある富士宮口頂上に到着するのですが、ブルドーザー道は富士火口縁の最高地点、剣ヶ峰の直下で火口縁にでて感激しました。山頂部には旧富士山測候所があり、以前はレーダードームがありました。付近の火山岩の大きさにも圧倒されます。
日本最高峰富士山剣ヶ峰3,776m
時刻は7時、4時間で登ってきました。黒い石は二等三角点の説明版です。ここは登りづらく他の三角点から見えづらいので一等三角点ではないようです。富士山頂部の南西側にあり、右に見えるのは富士宮口頂上の奥宮と山小屋兼食堂、太陽の下は相模湾です。
富士山頂上火口(お鉢)
頂上部中心には直径600m、深さ200mのすり鉢状の火口があります。火口の周縁部を含めて頂上部は直径800mの円形で、周囲を1周できる登山道があり、距離は2400m、コースタイムは90分、この火口(お鉢)の周回をお鉢巡りといいます。また、外縁部の高まりは剣ヶ峰の他に8つあり、これをお釈迦様が座る蓮華の八葉に見立てて、これをめぐるから御八巡りという説もあります。天空の信仰の回廊を左回りして、奥宮を目指します。
北西方向の展望
西縁から北西方向です。左手前は朝霧高原、右に本栖湖、右奥、甲府市、左奥は南アルプス、さらに奥に中央アルプス、右奥は八ヶ岳、最奥に北アルプス。標高1位の富士山から、2位の北岳、3位の間ノ岳と奥穂高、5位の槍ヶ岳、6位の悪沢岳・・・全部見えます。
お鉢巡り、還暦の記念に
この時期、山小屋はすべて閉鎖しており、食料や雨天時の対応などすべて自己責任ですが、登山者は少なく贅沢な貸し切り状態です。10月ですが下界の気温は30度で、山頂部の気温が6度もあり降雪の心配なし。富士山が還暦を祝ってくれているように感じました。
東方向の展望
2/3周して、前の写真の中央左に写っている吉田・須走口頂上へ来ました。はるか下まで登山道と多くの山小屋が見えます。シーズン中は東京から登山口の富士スバルライン5合目への直通バスもあり、一番登山客の多いのがこの吉田ルートです。左端が富士吉田市、正面に山中湖、奥に丹沢山系、右端に芦ノ湖と箱根、右奥は相模湾です。
山頂部東側から
吉田口山頂の食堂前のベンチに腰かけて、河口湖や山中湖を眺めながらランチパックとおにぎりも食べました。お鉢巡りを再開して、剣ヶ峰を正面にのぞみます。スノーシーズンにはスキーやボードを担いで登ってきて、剣が峰の左下方から火口底に滑り込む強者もいるそうです。剣が峰の下の火口の中の岩は虎岩です。還暦の寅年に眺めることができました。
浅間神社奥宮
ほぼ1周して9時に富士宮口登山道頂上に着きました。富士宮市にある富士浅間大社の奥宮、そして富士山頂郵便局、頂上富士館がありますが、シーズンオフでしまっています。奥宮に二礼二拍手一礼して、北側の、御殿場登山道頂上口へ引き返します。
御殿場登山道から南東方向
下りは御殿場道から宝永山を経由し右に曲がり富士宮口駐車場へ。皇太子が歩いたのでプリンスルートとも呼ばれています。宝永山の左には御殿場5合駐車場が小さく見えます。その上に箱根の芦ノ湖、その右側に伊豆半島の山々、正面最上部の右に伊豆大島が見えます。
御殿場登山道上部から山頂部
9時過ぎから降り始めました。10月初旬に、晴天で氷点下でもなく、ほぼ無風であることに感謝しなければいけませんが、自己責任の登山ですから、自然落石が恐ろしく、緊張の下山となりました。長居は無用ですから、軽やかに?駆け下ります。
宝永山
登山道は小さなジグザグを刻み、山小屋が点在しています。長い直線の道は山小屋へ物資を運ぶブルドーザー道です。慎重に駆け下りること50分、10時に8合目まで降りてきました。宝永山は右の宝永火口からの噴出物が堆積してできた山です。
大砂走り
40分で宝永山の手前まで降りてきました。直進すると宝永山、左へ分岐すると御殿場5合目登山口駐車場に至ります。この下山道は宝永噴火の噴出物のおかげで石ころがほぼなくなり、砂浜のような道を走る降りることができ、大砂走りと呼ばれます。
宝永山山頂
富士宮口5合目駐車場から多くのハイカーが訪れていました。宝永山山頂2693mの標識があります。富士山の中腹にあり、富士山に一番近い富士山の展望台です。
宝永火口から富士山
えぐれたところが1707年に噴火した宝永火口で、噴出物は東側に降り注ぎ、御殿場付近では1.5mの降灰、江戸にも数cmの降灰をもたらしました。宝永噴火について、新田次郎は小説「怒る富士」を書き、前進座による演劇の神戸公演を医療生協が後援しました。
宝永第2火口
宝永噴火には3つの火口があり、写真は第2火口の半ばから、宝永山、第1火口、富士山頂方向を眺めています。第2火口にカラフルに点在しているのはオンタデやイタドリの草紅葉です。これらの植物は厳しい環境の地に真っ先に生育するパイオニア植物です。
富士宮5合登山口駐車場
宝永山から第2火口まで20分、さらに樹林帯を平行移動するハイキング道を20分で、12時前に駐車場に帰ってきました。スカイラインの終点は一方通行のループ道路になっており、写真のように駐車帯が設けられています。登山後は麓へ移動して、村山修験(富士修験)の村山浅間神社や元宮である山宮浅間神社の近くにある温泉で汗を流しました。
茶の湯
京都国立博物館の「茶の湯」です。等伯が描いた肖像画「千利休像」(表千家不審菴蔵)、「大井戸茶碗 銘喜左衛門」(孤篷庵蔵)、「破れ虚堂」(東京国立博物館蔵)、「曜変天目茶碗」(龍光院)、「大井戸茶碗 銘筒井筒」(個人蔵)等々、国宝や重文が数十点も展示されています。それぞれに物語があるのですが、「筒井筒(つついずつ)」には、筒井順慶の「つついのいど」が秀吉にわたり、茶席で近習が5つに割ってしまったのを、細川幽斎が伊勢物語の「筒井筒 井筒にかけし まろがたけ」をもじり「筒井筒いつつにかけし井戸ちゃわん とがをば我におひにけらしな」と詠み、とりなした逸話が銘の由来として伝わっています。
瀬平自然公園から開聞岳
久しぶりに、指宿の砂蒸し風呂と山川のたまて箱温泉を再訪しました。温泉をはしごした後、西側からの海越しの開聞岳を眺めようと、枕崎方向へドライブしました。開聞岳は標高千m未満ですが、海から立ち上がる美しい円錐形は薩摩富士とも呼ばれ、日本百名山です。
番所鼻から開聞岳
伊能忠敬が番所鼻を1810年に測量で訪れた際に、東シナ海に浮かぶ開聞岳と岩礁の曲線美を「けだし天下の絶景なり」と称賛したとのことです。左側稜線の突起部分が元の山頂でしたが、874年の875年の大噴火で山頂が盛り上がり、現在の姿になりました。
鑑真和上上陸の地
枕崎ではカツオの刺身を堪能し、焼酎の藏を見学、坊津(ぼうのつ)では歴史資料センターを見学して、坊津町秋目へやってきました。天平勝宝5年(753年)に鑑真が上陸を果たした地です。記念館では、仏教や薬学を伝えようとした苦難と功績が紹介されていました。
霧島神宮
本年2月9日に霧島神宮の本殿、幣殿、拝殿が国宝に指定されました。照国神社の太刀「銘 国宗」に次いで鹿児島県の国宝第2号です。1715年島津吉貴の寄進による登り廊下の奥の3つの建物が国宝です。柱に施された龍の彫刻や、極彩色の琴棋書画や二十四孝の絵画による豪華な装飾が評価されたとのことで、日光東照宮を彷彿とさせる装飾です。
免田式土器
西都原の考古博物館を見学しました。展示されていた免田式土器は球磨川流域や熊本南部を中心に出土し、年代は西暦200年前後で卑弥呼の時代です。弥生式土器の中で最も気品があるこの土器は、邪馬台国と戦った狗奴国で使用されていたと考えられています。
西都原古墳群
宮崎県のほぼ中央にある319基の古墳群です。鬼の窟(いわや)古墳は最も新しい6世紀後半の円墳です。ちょうどコスモスが満開でした。5世紀前半の女狭穂塚(めさほづか)(176m)は九州最大の前方後円墳で、古市古墳群の仲津山古墳の×0.6の形状です。九州の大型古墳10基のうち7基が古代日向の地にあり、大和政権とこの地域には強い同盟関係がありました。球磨・曽於(熊襲)勢力に対峙する最前線だったのでしょう