三嶺(みうね)山頂

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奥祖谷二重かずら橋の手前、名頃の登山者用駐車場から、標高差1000mを2時間20分で登ってきました。三嶺(1,893m)は徳島と高知の県境の山で、日本二百名山、また高知県最高峰です。晴天で樹氷は溶けてしまいましたが、四国一の絶景の山の面目躍如です。

三嶺から剣山

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山頂から西方向の眺望です。山頂直下のミヤマクマザサの中の氷結した池と三嶺ヒュッテ。手前の低木はコメツツジで、右手遠方に見えるのは左が百名山の剣山(1,955m)、右が次郎笈(じろうぎゅう)(1,930m)です。その向こうは徳島市となります。

三嶺から高知方向

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山頂から南東方向です。山頂には雪が残っています。三嶺の看板がおしゃれです。左奥の三角形に見えるのが天狗塚(1,812m)で、4km続く尾根のコメツツジ・ミヤマクマザサ群落は国の天然記念物に指定されています。左遠方には高知の海が見えます。

崇徳天皇御陵遥拝所

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大河ドラマ「平清盛」で井浦新が演じた崇徳天皇。保元の乱で後白河天皇に敗北し、讃岐へ配流された崇徳は、8年後に亡くなります。白峯山に葬られた崇徳は、上田秋成の雨月物語では怨霊として描かれます。ちなみに、菅原道真、平将門、崇徳天皇が三大怨霊です。

御陵を訪問した西行の前に怨霊として現れた崇徳の浅ましい姿を嘆いた西行は「よしや君 昔の玉の床とても かからんのちは 何にかはせん」と詠んだとされますが、崇徳天皇が綾川ほとりの仮御所、雲井御所で詠んだ歌には、怨念ではなく穏やかな諦観を感じます。

ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて

入り浜式塩田

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 讃岐三白は、塩、砂糖、綿。瀬戸内は雨が少なく干満の差が大きいので塩づくりに適していました。昭和30年頃まで塩田が拡がっていたそうで、うたづ臨海公園には塩田が再現されています。坂出の塩業資料館では塩づくりの歴史や塩の用途を学べます。

丸亀城

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 標高66mの亀山に築かれた丸亀城。日本一の高さを誇る4段の石垣が有名です。1660年に京極氏により建築された木造天守は現存12天守の一つで、写真手前の大手一の門・二の門とともに重要文化財です。2018年の豪雨で崩壊した南西石垣の石材は約6000個、元通り積みなおすそうです。総工費35億円、2023年3月に完成予定、右手奥に回り込むと工事中の斜面を眺めることができます。

石見銀山

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古代では金より価値の高かった銀ですが、製錬方法が向上し価値が下がった結果、貨幣として重要となります。アテネはドラクマ銀貨鋳造でギリシアの盟主に、16世紀初頭、ボヘミアでターラー貨(ドルの語源)が鋳造されヨーロッパの基準通貨になります。

日本には、1540年頃、朝鮮から灰吹法が伝わり、石見銀山の生産量が急増、16世紀後半の最盛期には世界の銀産出量の3分の1が石見銀山のソーマ(佐摩村)銀でした。

写真は予約なしで見学できる龍源寺間歩(間歩=坑道)の入り口です。

山吹城址

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 大森地区から龍源寺間歩への途中、谷の西側の要害山(414m)に築かれたのが山吹城で、比高は200m、石見銀山を守る拠点です。戦国時代には、大内氏、尼子氏、毛利氏が攻防を繰り返しました。北西方向には大内氏支配時代の積出港である温泉津(ゆのつ)が、東には三瓶山(さんべさん 二百名山)が遠望できます。

石見銀山大森地区

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 商家や武家屋敷や寺社が道沿いに並ぶ大森地区。重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、タイムスリップしたような街並みをゆったりと散歩できます。昔ながらのお菓子屋さんや古民家を改装したセレクトショップ、ベーカリー、カフェが点在しています。

 銀山資料館では、最古の防塵マスクや、江戸時代に使われていたサザエの殻に油を満たした栄螺灯(らとう)が印象的でした。「らとちゃん」は島根県太田市の「ゆるキャラ」です。

石見神楽

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 温泉津に宿をとりました。源泉46度、炭酸やメタ珪酸を含むナトリウムカルシウム塩化物泉は、なめらかで、茶褐色、黄金色、エメラルドグリーンと色が変化する極上の湯でした。

温泉街にある龍御前(たつのごぜん)神社で石見夜神楽を鑑賞しました。舞踏、お囃子、セリフ、衣装、どれもが素晴らしく、伝統芸能のエネルギーに圧倒されました。

琴ケ浜

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 砂が鳴る鳴き砂の海岸です。この20年で半減し、今では全国に50か所と言われています。島根県仁摩の琴ケ浜は1.5kmと長く、浜全体の砂が鳴ることで有名です。鳴き砂の条件は、砂粒が丸く、石英砂が多く、海がきれいで、海岸に土砂が流れ込まない、などだそうです。ヒトが汚さないことも大切でしょう。

北条義時館跡

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 「鎌倉殿の13人」の主人公、北条義時は伊豆の国市の江間村で幼少期を過ごし、江間小四郎と呼ばれていました。館跡は公園となっています。東を流れる狩野川を渡ると北条氏邸跡や願成就院がありますが、当時の狩野川はもっと東を流れており、一帯は地続きで北条氏の領地でした。

史跡北条氏邸跡

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江間公園から南へ1kmほどにある北条時政の館跡です。守山という小山の南西一帯が館跡、守山の東側には奥州藤原氏征討の勝利を祈願し時政が建立した願成就院があります。その東の蛭が小島は頼朝配流の地で、さらに東の韮山には監視役の山木兼隆がいました。

若山牧水記念館

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伊豆半島のつけね、沼津から田子の浦まで駿河の海岸に約10kmにわたり、松原が続きます。時代劇で松原越しに富士を望むお馴染みの景勝地、千本松原です。若山牧水はこの景観を愛し、居を構え、ここで亡くなりました。正面に「幾山河こえさりゆかば」の句が展示されています。旅と自然と酒を愛し、気持ちを素直に表現した彼の人生が学べる記念館です。

白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒はしづかに飲むべかりけり

興国寺城跡

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 沼津の愛鷹山麓にある城跡です。1503年、桓武平氏伊勢氏の庶流で9代将軍足利義尚の奉公衆だった伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)は、甥で駿河守護の今川氏親に加勢、この地を拠点に、京の将軍と対立する伊豆韮山の堀越公方、足利茶々丸を攻め数年がかりで伊豆を平定、さらに箱根を越えて小田原にまで進出します。後北条家の始まりです。

横山城址

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 横山城(よこやまじょう)は近江国坂田郡(長浜市)にあった山城で、織田信長と浅井長政の激しい戦いの拠点。姉川の戦いの後、木下秀吉(豊臣秀吉)が城番として守備していました。正面伊吹山の右側は関ケ原、左側には7km先に浅井の小谷城を望みます。浅井氏が滅亡すると、秀吉は北近江を与えられ、長浜城を築城。この横山城は廃城となったようです。

米原市朝日の観音寺

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十四歳頃、この寺の茶坊主だった三成が、鷹狩の途中に茶を所望する秀吉にまずぬるめの薄い茶を大きな茶碗に八分目ほど、次にやや熱めで濃いめを茶碗に半分、三杯目には熱く濃い茶を小さな茶碗で出し、秀吉の感心を買ったという『武将感状記』中にある有名な三献茶の舞台です。ここは横山城の南麓にあり、この写真の後方が横山城への登山口です。

畠山記念館の名品

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 京都国立博物館で開催された「畠山記念館の名品―能楽から茶の湯、そして琳派(りんぱ)」「離洛帖」(藤原佐理筆 991年 国宝)や「煙寺晩鐘図」(牧谿筆(伝)南宋時代 国宝)など、あまり公開されない貴重な文化財を鑑賞することができました。