古寺山(こでらやま)から朝日連峰
山形県の寒河江のホテルを午前2時半に出て、小1時間で登山口の朝日連峰古寺案内センター駐車場に到着。大朝日岳山頂までの標高差は1200m。3時45分に登り始めました。5時半に古寺山に着くと、左に小朝日岳、正面に大朝日岳と右へ主稜線が見えました。
大朝日岳とヒメサユリ
小朝日岳を越えると大朝日岳が近づいてきました。7月中旬ですが雪渓が残っています。雪渓上端の右に大朝日小屋が小さく見えます。この日、山形市の最高気温は36度で、1500mの稜線上でもすでにかなり暑く、早朝から登って正解でした。
ヒメサユリ
朝日連峰、飯豊(いいで)連峰、吾妻山等の周辺にのみ群生する日本特産のユリで、ササユリの色は白~ピンクですが、このユリはピンク~ローズです。国際自然保護連合のレッドリストに記載の絶滅危惧種ですが、喜多方や南会津の自然公園には大群落があるようです。
大朝日岳山頂
7時半に大朝日岳(1870m)の山頂に到着、日本百名山97座目です。6時間コースを4時間未満で登れました。ケルンの左が蔵王連峰、右に吾妻山と磐梯山。山頂周辺にはホソバウスユキソウ(エーデルワイスの近縁種)が咲いていました。
山頂から南側の展望
朝日連峰は山形盆地の西側に拡がる東西30km、南北60kmの大きな山地で、ブナ林の面積は白神山地よりも広大です。大朝日岳は連峰の南端にありますが、さらにその南側にも広大な山地が拡がります。標識の左に吾妻山と磐梯山、右に多くの雪渓が残る飯豊連峰です。
飯豊連峰
朝日連峰南部の山々の向こうに小国町をはさんで飯豊連峰がよく見えました。正面の長い雪渓が、例年8月半ばまで、アイゼンで登ることができる石転び雪渓です。
山頂から北側眺望
山頂から北側には登ってきた小朝日岳からの稜線、雪渓の左が中岳で主稜線の道は左奥の200名山、以東岳へと続きます。右奥に実にゆるやかな稜線の高まりが月山です。
月山と鳥海山
月山の左の雲が一瞬途切れて、さらに遠くにある鳥海山が姿を現しました。なだらかな稜線の重なりが特徴的な東北のジャパンブルーです。月山にも鳥海山にも雪渓が残ります。以前、お盆に鳥海山に登った時、若い人たちが雪渓で夏スキーをしていたのを思い出しました。
浜田広介記念館
大朝日岳登山の前日、東置賜郡高畠町を走っていると「日本のアンデルセン」という看板が目に入りました。「泣いた赤鬼」が心に浮かび、行ってみるとまさにその作者、浜田広介の記念館でした。左の家屋は移築された浜田の生家です。看板の文字に心打たれます。
斎藤茂吉記念館
「みちのくの母の命を一目見ん一目見んとぞただにいそげる」「陸奥(みちのく)をふたわけざまに聳(そび)えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ」くらいしか知りませんでしたが、生い立ち、結婚と葛藤、精神科医としての業績、弟子との恋愛など、興味深く見学しました。
壱岐の重要文化財
魏志倭人伝の冒頭に登場する壱岐島を訪問しました。博多の手前で車中泊をし、ジェットフォイルという高速船での日帰りの旅です。壱岐市立一支国博物館のビューシアターでは上映後にスクリーンが下がり、ガラス越しに原の辻(はるのつじ)遺跡が拡がり驚きました。
原の辻一支国(いきこく)王都復元公園
遺跡の場所に弥生時代当時の建物が復元されています。左正面の山の上に、壱岐市立一支国博物館が小さく見えています。稲作に適した広い低湿地、内海(うちめ)湾という天然の良港、航行に適した河川、生活に恵まれた地形であることがよくわかります。
船着場跡模型
ここでは、中国大陸系の高度な技術で築かれた東アジア最古の船着場が発掘され話題になりました。ガイダンス施設正面にこの模型が屋外展示されています。漢委奴国王の金印や卑弥呼に下賜された銅鏡百枚や七支刀などもここを中継地としたのかもしれませんね。
一支国博物館
黒川紀章の設計の建物は、美しいカーブと合理的な内部構造で感動的です。展望室からは博物館の緑化された屋上、原の辻遺跡跡公園、そして田園風景が拡がります。内部は、通史ゾーン、古墳ゾーン、準構造船と一支国ジオラマ模型の部屋等、視覚的に興味深く学べます。
猿岩
壱岐島の西側の海岸にある高さ45mの海蝕崖の玄武岩でお猿さんを彷彿とさせます。日本の奇岩百景の一つです。ポスター等で有名ですね。
河合曾良の墓
奥の細道で弟子として芭蕉に同行した曾良の墓が壱岐島にあります。秀吉が朝鮮出兵の中継拠点として築城した壱岐島北部の勝本城北麓の能満寺です。幕府の巡見使随員となり九州巡見の途上にこの地で病没、享年62。奥の細道の旅から20年後のことです。
少弐資時(しょうにすけとき)の像
東海岸の芦辺港にある銅像です。文永11年(1274年)の文永の役で、12歳で初陣。弘安4年(1281年)の弘安の役では、祖父・資能や父・経資らと共に壱岐島を占領する東路軍との奮闘の末、戦死、享年19でした。少弐氏は藤原北家を祖とし、武州に領地をもち武藤氏を名乗り、鎌倉時代に太宰少弐に任じられ少弐氏と名乗った氏族です。島には千人塚などの元寇史跡もあります。
蒙古襲来(元寇)の展示
翌日、国立九州博物館を見学しました。元寇関連のコーナーには、嵐で沈んだ蒙古の軍船の錨や鎌倉武士を震撼させた「てつはう」などが展示されています。
大野城跡 百閒石垣
太宰府東側の四王寺山にある全長約8kmに及ぶ広大な古代山城の石垣です。663年、白村江の戦いに敗れた大和政権が唐・新羅の侵攻に備えて築きました。大宰府政庁跡の北にある水城跡も同時期の築造物で、九州北部が戦争の最前線であったことを実感できます