大槻能楽堂の日賀寿(ひかず)能

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大阪上町の大槻能楽堂でリニューアル記念公演(1月3日)を観てきました。演目は、「翁 烏帽子祝言」観世清和 舞囃子「高砂」大槻文藏 狂言「松楪」茂山千作 能「猩々」観世銕之丞。観世清和の翁面は弥勒作(平安時代)、狩衣は徳川家康拝領の蜀江錦。

「翁」は「能にして能にあらず」と言われ、古典芸能の源である猿楽を今に伝える神事の舞です。露払いの千歳、国土安寧を祈念する翁、五穀豊穣を祈る三番叟。大倉源次郎の至高の小鼓による三番叟(三番三)の茂山逸平は、決して力むことなく、伝統の型をきちんと継承しようとする気概を感じさせる良い舞でした。

鳥居本の平野屋

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明智光秀が本能寺の変の直前に訪れた愛宕神社は、嵐山の北側、愛宕山の山頂にあります。表参道は嵯峨野の鳥居本の一の鳥居からはじまります。鳥居のそばには鮎料理で有名な平野屋があり、下山後にお抹茶と柚子しぐれをいただきました。

清滝トンネル

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鳥居本より少し北側、トンネルの手前に駐車して、午前6時過ぎに出発です。心霊スポットとして有名な清滝トンネルを歩いて清滝へ向かいます。幽霊よりも、時々走行する車のほうがこわいスポットでした。

愛宕神社 二の鳥居

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トンネルを抜け、清滝の集落のはずれの二の鳥居から本格的な登山道が始まります。

愛宕参りが盛んだった往時の茶店あとや土器(かわらけ)投げの跡地など、落語の「愛宕山」さながらの参道を登りますが、落語どおりの半端ない急坂の連続です。

愛宕神社黒門

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二の鳥居から延々と坂道を登ること2時間半でようやく黒門に到着。愛宕神社は廃仏毀釈以前、神仏習合の愛宕権現を祀る白雲寺であり、この門は白雲時の遺構です。

愛宕山旧白雲寺境内

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黒門をすぎると山頂部には広大な平地が広がり、社僧の住坊が立ち並んでいたことが想像できます。

天正10年(1582年)5月、光秀は「本能寺の変」の直前に、ここの威徳坊で連歌「愛宕百韻」を催し、土岐明智氏による天下取りの決意を込め、次の発句を詠みました。

ときは今 あめが下しる 五月かな

写真7:愛宕神社鳥居

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さらに長い階段を登り終えるといよいよ神社の鳥居です。

愛宕神社社殿

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有名な「火迺要慎(ひのようじん)」のお札をいただきました。

今はイザナミノミコトがご祭神ですが、安土桃山時代には愛宕権現の本地仏である勝軍地蔵が祀られており、多くの武士の信仰を集めました。直江兼続の兜の「愛」は愛宕権現の「愛」という説が有力です。

愛宕山からの眺望 

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降りは月輪寺(つきのわでら)を通って清滝へと戻る「月輪寺コース」です。愛宕山(標高924m)の山頂は神社の境内で、樹木に覆われ展望はなく立ち入ることもできませんが、この降りコースの三角点付近から、京都市街を眺めることができました。市街の左端が本能寺の方向、桂川の下流に山崎合戦の地を望みます。大河ドラマでは光秀にここから本能寺の方向を睨んで「ときは今」とつぶやいて欲しいですね。

ぎふ可児(かに)大河ドラマ記念館

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岐阜県可児市の花フェスタ会場内の大河ドラマ記念館です。登場人物・俳優の紹介や衣装、光成の生涯、エピソードなどが展示されています。この日は、光成の肖像画(大阪府岸和田市にある本徳寺所蔵)が特別展示されていました。肖像画は2月16日から3月8日まで、岸和田城で展示されます。

明智城址大手門

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可児市の名鉄明智駅から南側に鎌倉時代には明智荘(あけちのしょう)と呼ばれていた土地が拡がっています。清和源氏、源頼光の子孫が美濃土岐郡に土着して土岐氏を称し、その支流の土岐頼兼が1342年に長山明智城を築城、1556年に斎藤義龍の攻撃を受けて落城。光秀はこの地に生まれこの城で暮らしたという説が有力です。

明智城

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花フェスタ記念公園に駐車して大手門まで15分ほど、大手門からさらに10分ほど桔梗坂を上ると本丸跡とされる台地に到着です。北側には展望台が設置されて明智荘や森蘭丸が城主であった美濃金山城などを望むことができます。

 

可児郷土資料館

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明智光秀と可児、明智荘にルーツを求めて が開催中でした。前出の肖像画ですが

岸和田の本徳寺の位牌と肖像画の賛に「輝雲道琇禅定門」の文字があり、輝くの光と琇の秀で光秀だというのです。本徳寺の開祖、南国梵桂(なんごくぼんけい)は山崎の合戦のあと妙心寺で出家した光秀の遺子・明智光慶との説があり、父親の供養に肖像画を作らせたと寺では言い伝えられています。

荒川豊蔵資料館

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左上に牟田洞古窯跡(可児市久々利)があります。昭和5年、ここで志野の筍絵陶片が発見されました。この発見は「日本の陶磁史を覆す大発見」でした。志野や織部など桃山陶の生産地は瀬戸でなく美濃だったのです。国宝の志野茶碗〈銘 卯花墻〉〈めい うのはながき〉の作陶地とされ、今も斜面に多数の陶片を観察できます。

陶片の発見者は後の人間国宝、荒川豊蔵。豊蔵は古窯の向かいに自宅を構え、ここで研究して見事に志野を再現しました。豊蔵の代表作、「志野筍絵茶碗 銘 随縁」と「瀬戸黒金彩木葉文茶碗」のクリアファイルをいただくことができました。