小江戸「川越」

「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」 明治の大火後、時の鐘とともに耐火建築「蔵造り」で復興した町並みは江戸情緒たっぷりで、「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。川越まつり会館では10月に山車が町に繰り出す様子や、ユネスコ無形文化遺産に認定されていることなどが展示されています。文化4年(1807)創業のうなぎ専門店「小川菊」でうな重をいただきました。
太田道灌と川越城

小学生の時、漫画「日本の歴史」で太田道灌の「ななへ八重花は咲けども山吹の実の(蓑)一つだになきぞ悲しき」のエピソードを知りました。江戸時代につくられたお話のようですが、文武両道でありたいと子供心に感じました。
応仁の乱の時代、関東でも古河公方、関東管領の山内上杉氏、扇谷上杉氏、そこへ堀越公方も参入して戦国時代の幕開けとなりました。扇谷上杉氏の家宰、太田道灌は1457年に江戸城と川越城を築城し、戦も連戦連勝して扇谷上杉氏を大勢力に押し上げますが、下剋上の不安を感じた主君により暗殺されてしまいます。その後、徐々に北条氏に圧迫された扇谷上杉氏は1546年の川越夜戦で大敗・滅亡します。山内上杉氏も徐々に弱体化し、長尾景虎に名前を譲り上杉謙信が誕生します。左下は川越城本丸御殿です。江戸時代の川越藩主では松平信綱(知恵伊豆)や柳沢吉保が有名ですね。
川越大師「喜多院」

前身の無量寿寺は830年円仁の創建、武蔵野台地北端の重要な場所と認識されていたのでしょう。1599年天海が無量寿寺北院住持となり、1612年喜多院に改名。1638年大火からの復興時に、江戸城から「家光公誕生の間」を含む客殿と「春日局化粧の間」を含む書院が移築され、現存する江戸城の御殿として重要文化財に指定されています。最初ここが東叡山でしたが、後に天海が上野に東叡山寛永寺を創建しました。
印刷博物館

TOPPAN小石川本社ビルにある印刷博物館です。プロムナードでは、ラスコー洞窟壁画から磁器ICカードまで、印刷文化の歴史を俯瞰する大壁面が迎えてくれます。
グーテンベルク 42行聖書 原葉、1,800年代初頭の手引き印刷機、印刷工房での活版印刷体験など、ここならではの観覧・学習ができます。
印刷の日本史

奈良時代770年に完成した百万塔陀羅尼は世界最古の印刷物です。木版印刷(凸版)と考えられているようです。徳川家康が駿府で鋳造させた「駿河版銅活字」は重要文化財で、「群書治要」(唐時代の政治参考書)などを印刷しました。本阿弥光悦らによる嵯峨本では2100個の木活字が作られ、伊勢物語などが印刷されています。明治初頭の活版印刷まではイメージできますが、カラー印刷やオフセット印刷になると説明を読んでもチンプンカンプンでした・・・。
熊野御幸記と藤原定家の書

日本橋の三井本館にある三井記念美術館は茶道具、絵画、書跡、能面などのコレクションで有名です。1201年に後鳥羽上皇の熊野参詣に随行した藤原定家の自筆による記録が国宝「熊野御幸記」です。有田市の「くまの古道歴史民俗資料館」で見た現代語訳とイラストの展示を思い出しました。険しい山道やあばら家での寝泊まりで体調を崩しても上皇に先行して色々な準備しなければなりません。あの百人一首の定家なのですが、当時の中下級貴族の宮仕えの苦労がありありと伝わってきます。
KOBEルミナリエ

三宮で安全センターの会議があり、終了後、数年ぶりに東遊園地のルミナリエを見ることができました。震災の年の年末の、最初のルミナリエを思い出します。
姫路城と歴史博物館

20年ぶりに姫路城に行きました。豊臣兄弟が放映されているので、当時の石垣が残っているのか調べると天守の南側にあるということでした。黒田官兵衛普請の石垣と立派な説明版もあります。歴史博物館には全国の国宝天守や兵庫県の国宝建築、浄土寺浄土堂や一乗寺三重塔などの模型もあって楽しめました。
鄭成功記念館

長崎出島以前の南蛮貿易港として有名であり、潜伏キリシタン関連の世界遺産もある平戸に行きました。出発前にグーグルマップを眺める平戸島に鄭成功の文字を見つけました。鄭成功は福建州出身の海商、鄭子龍を父に、松浦藩士の娘、田川マツを母として、1624年に平戸島で生まれます。父は商人ですが船団は武装しています。鄭成功は清に滅ぼされた明の復興のために、父から引き継いだ大艦隊を率いて闘いますが徐々に大陸の拠点を失います。しかし、得意な海戦で台湾を支配していたオランダ勢力を駆逐し、台南を拠点に台湾の開拓をはじめます。今、台南には「鄭成功祖廟」があり神として祀られ、日本の文楽「国性爺合戦」では英雄「和藤内」として登場します。和でも唐でもないハーフという意味です。海軍だけでは清に勝てませんでした。
世界文化遺産 安満岳

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連資産」は2018年に世界文化遺産に登録されました。構成資産には原城跡や大浦天主堂のほかに、天草や五島など主に離島の集落が数か所、そして「平戸の聖地と集落」として(春日集落と安満岳)と(中江の島)が登録されています。安満岳は春日集落にとっては水源の山であり、中世には神仏習合の山岳修験の寺が山頂部で繁栄し、白山比売神社が鎮座します。また航海のランドマークとして日宋貿易の宋商人が彼ら独自の仏塔「薩摩塔」を奉納するなど、優れた山容ゆえに多くの人々に聖地と見なされ、キリシタンもまた信仰の対象として自然石で祠を作りました。薩摩塔は最初に薩摩で発見されたのでそう命名されましたが、宋商人が宋から持ち込んだ彼らの仏塔です。山頂からは春日集落や生月島、また南方には平戸島南部と海のむこうに五島列島が見える日もあるようです。
学術的には、江戸幕府による禁教令以降のキリシタンを「潜伏キリシタン」、明治になりキリスト教が解禁されてもカソリックに復帰せず、潜伏キリシタンとしての信仰を続けた人々を「かくれキリシタン」と呼ぶそうです。春日集落は「かくれキリシタン」の集落で、キリシタン墓地跡と美しい棚田がありますが教会はありません。
生月島(いきつきじま)博物館「島の館」

太地町は捕鯨発祥の地で「網掛突取法」もこの地で考案されました。一方、生月周辺はクジラが多く生息し、江戸時代後期には、生月島が日本一の規模を誇る捕鯨拠点となりました。「網掛突取法」の様子が大きなジオラマで再現されています。
生月島出身で身長227cm、日本一の巨漢の江戸時代の力士は四股名に「鯨」の文字、その名も生月鯨太左衛門。松浦資料館には彼の下駄(復元)がありました。
「島の館」のカクレキリシタン

博物館にはカクレキリシタンの展示室があります。生月島と平戸島の間にある中江ノ島では多くのキリシタンが処刑された故に、カクレキリシタンの聖地とされ、オラショを唱えると聖水が湧き出ると伝えられています。オラショはポルトガル語やラテン語で祈祷のこと、神棚と仏壇の奥には納戸神が祀られています。
殉教地ガスパル様と中江ノ島

生月島の黒瀬の丘は、キリシタンのガスパル西玄可が慶長14年(1609)に殉教した場所です。 平成3年(1991)にカトリック信徒によって「黒瀬の辻殉教碑」が建てられました。ここから平戸島と生月島の間にある中江ノ島を望むことができます。
ガスパル西の父は松浦藩武士、島の総奉行で、1558年、2歳のとき父とともに日本のキリスト教史上最初期の宣教師ガスパル・ヴィレラ神父から受洗しています。
キリシタン弾圧の資料

平戸市街の松浦資料館にはキリシタン弾圧の資料が展示されていました。中浦ジュリアン (1567–1633)は1582年にローマに派遣された天正遣欧使節の1人です。1614年の禁教令で多くの司祭が海外に逃れましたが中浦は国内に残って布教を続けます。1632年に幕府に捕らえら、獄中での数カ月の拷問ののち、1633年穴吊りの拷問で亡くなりました。キリシタンを中心とした2万人以上の島原・天草一揆は4年後の1637年です。原城は陥落し、密通者1人以外のすべてが殺されました。
平戸の美しい教会群

上は平戸市街の丘に建つ平戸ザビエル記念教会(昭和6年)、中右は市街のザビエル像、中左は大正元年に建てられた生月島のカトリック山田教会、下は大正7年完成の田平天主堂で国の重要文化財です。内部のステンドグラスは息をのむ美しさでした。
異国情緒漂う平戸市街

オランダ坂は1618年(元和4)に築造、平戸城と市街地を結ぶ幸橋は1669年の木造橋を1702年に石橋に架け替えてオランダ橋と呼ばれ重要文化財指定です。夜景は、左に九州本土と平戸島を結ぶ平戸大橋、右に平戸城の再建天守です。右下は「寺院と教会の見える風景」という平戸らしい景色です。
平戸オランダ商館

ポルトガル船が初めて平戸に入港したのは1550 年ですが、布教活動が盛んになると複雑な関係が生じるようになり、1561年にポルトガル船長以下14名の死者をだす宮ノ前事件が発生し、ポルトガル船は長崎に移りました。1600年、日本に漂着したオランダ船リーフデ号の航海長、イギリス人のウィリアムアダムス(三浦按針)の働きで、1609年にはオランダ船が入港し、1641年長崎出島に移転するまでの約33年間、平戸が我が国唯一のオランダ貿易港として賑わいました。オランダ東インド会社は日本初の西洋石造建造物「1639年築造倉庫」を完成させますが、出島への移転に伴い、1641年に取り壊されてしまいます。オランダ人の日本人妻子も後にジャカルタなどへ追放され、彼女たちが望郷の思いを書き送った手紙が「じゃがたら文」です。復元建物は2011年9月から博物館としてオープンし、初期のオランダ貿易が学べます。
松浦資料博物館

松浦氏の祖は嵯峨源氏の源融で光源氏のモデルです。中世には松浦党として元寇から日本を守りました。江戸時代には平戸藩主となり、資料館には大友宗麟から送られた重要文化財の紺糸威肩白赤同丸や狩野探幽の狂獅子図屏風などが展示されています。松浦静山(1760年~1841年)は平戸藩第9代藩主で、隠居後に執筆した随筆集「甲子夜話」や剣術書「剣談」が有名です。野村克也が座右の銘としていた「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし。」はこの「剣談」が出典です。
三浦按針(ウィリアム・アダムス)

リーフデ号の航海士として1600年に来日した最初のイギリス人ウィリアムアダムスは、プロテスタントとしてヨーロッパ情勢を伝えたことや、造船や航海についての豊富な知識から徳川家康に重用され、三浦に領地を与えられ三浦按針を名乗ります。彼の提言で家康はオランダやイギリスとの通商を決定します。1609年オランダ東インド会社のオランダ船が平戸に入港し、駿府の徳川家康と面会、平戸にオランダ商館を開設しました。また1613年、イギリス船クローブ号が国王の書簡を携え平戸に入港し、三浦按針がイギリス人一行とともに家康に面会し、通商の許可を得て、イギリス商館も開設されました。彼が居住したので、老舗菓子店の蔦屋の建物が三浦按針の館と表示されています。また、オランダ坂を登った丘に三浦按針の墓があります。按針の没後、1623年のアンボイナ事件でオランダによって東アジアからイギリスは駆逐され、同年平戸イギリス商館は閉鎖されました。
平戸の南蛮菓子「カスドース」

蔦屋は文亀2年(1502年)創業の平戸藩松浦家御用菓子司です。「カスドース」はポルトガル人宣教師が平戸に伝えた菓子の一つで、元々は航海で古くなったカステラを再調理したもののようです。天保12年(1841年)の松浦家の「百菓之図」にも蔦 屋の「カスドース」「牛蒡餅」の記載があります。皇室献上銘菓でもあります。
平戸城

南北朝時代の14世紀中頃に平戸松浦氏により湾奥の丘に勝尾岳城が築かれました。戦国期には居館を崎方遠見の古館に移したとされます。慶長4年(1599年)に現在の場所、日之嶽に築城を開始するも、幕府による改易を警戒して同18年(1613年)に自ら放火して城を破却。後の1704年、平戸城の再築を申し出て、1718年に平戸城が完成。明治4年廃城となるも昭和37年に復元されました。日本百名城の一つです。
平戸・生月の絶景

平戸島や生月島の一部は西海国立公園に指定されています。生月島の北端には大バエ灯台があり西南方向には火山地形の断崖が続きます。下の写真は塩俵の断崖で高さ20mの柱状節理の断崖が南北500mほど続きます。平戸湾沖の黒子島は、古くから伐採が禁止されたために貴重な植生が残り、天然記念物に指定されています。
国特別史跡「福井洞窟」

佐世保市吉井町福井にある旧石器時代から縄文時代の洞窟遺跡です。定点で生活と文化の変遷を観察できた貴重な遺跡として出土物は重要文化財に一括指定されています。日本で初めての旧石器時代の土器や35,000年以上前の石器などが有名です。ミュージアムは令和3年4月のオープンで、プロジェクションマッピングで洞窟の成り立ちを紹介するなど、わかりやすい展示内容で楽しめました。
博多旧市街エリア

博多駅前の承天寺通りの博多工芸館には博多織、博多曲物、博多鋏、博多人形などが展示されています。承天寺は1242年宋から帰国した円璽(聖一国師)が開山、商人の謝国明らの創建で博多山笠発祥であるとともに、饂飩、蕎麦,饅頭発祥の石碑があります。博多織、素麺、金箔などもこの時に宋から伝えられました。円璽は東福寺の開山でもあります。日本で初めて「国師」の号を贈られました。
筥崎宮と香椎宮

古事記や日本書紀に記された神功皇后のお話に起源をもつ2つの神社です。
筥崎宮は神功皇后が応神天皇を出産した際の胞衣(えな)を箱に入れて埋め「筥松」を植えたお話に由来します。921年の創建です。現在残っている建物については、本殿は大内義隆、楼門は小早川隆景、一の鳥居は伝黒田長政(実は鍋島勝茂)の寄進です。楼門の扁額「敵国降伏」は醍醐天皇宸筆など文化財の宝庫で、すべて重要文化財です。
香椎宮は仲哀天皇が亡くなられた橿日宮の跡地とされます。仲哀天皇と神功皇后の息子の応神天皇の誉田御陵山古墳が5世紀初頭とすると広開土王碑に「辛卯年(391年)に倭が海を渡って百済を打ち破った」と記載されていることから、倭が韓半島に侵攻した歴史を踏まえた「お話」なのでしょう。香椎宮は日本書紀完成(720年)の4年後、聖武天皇の神亀元年(724年)に本殿が建立されています。





