藤原宮跡から天香久山
奈良県橿原市、藤原京跡のコスモス園です。談山神社が鎮座する多武峰(とうのみね)のあたりから朝日が昇ってきました。手前の低い丘(山)が天香久山(あまのかぐやま)です。
耳成山
北には耳成山が見えます。コスモスのむこうに小さく見えるオレンジは大極殿跡の柱です。「飛鳥より都にむくよ(694)藤原京」と覚えました。694年から710年までですが日本初の本格的な都で、天武天皇の遺志を受け継いだ持統天皇により完成しました。
藤原宮跡の再現柱
広い遺跡の中には再現柱が散在しています。2016年、朝堂院前の朝庭で7基の柱穴が見つかり、続日本紀に記載されている大宝元年(701)の元日朝賀に立てられた7本の幢幡に関わる遺構に合致している、と話題になったことが思い出されました。
畝傍山
西側には畝傍山が見えます。奥の高い山は葛城山です。藤原宮跡から見える天香久山、耳成山、畝傍山が大和三山です。
香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より かくにあるらし
今昔(いにしえ)も 然(しか)にあれこそ
うつせみも 嬬(つま)をあらそふらしき (万葉集 巻Ⅰ-13)
葛城山と金剛山
この後、大和三山に登ってみました。畝傍山が一番高くてそれでも標高は199mです。
三山とも山頂は木々に覆われ、香具山や耳成では眺望はほぼありませんでした。写真は畝傍山山頂から西側の眺めで、右が葛城山、左が金剛山です。手前は新沢千塚古墳公園です。
橿原市藤原京資料室
藤原宮跡の北西端にあります。ジオラマの周囲に藤原京の説明が並んでいます。ジオラマの中央が耳成山。その奥の白い正方形が藤原京。右奥に畝傍山、左奥に天香具山。藤原宮が大和三山に囲まれた立地であることがよくわかります。
説明板にある高松塚古墳ですが、出土した海獣葡萄鏡が7世紀末に唐で作られたことがわかっており、704年の遣唐使が持ち帰ったとすると、被葬者は忍壁(おさかべ)皇子となります。彼は天武天皇の息子で、義母の持統天皇と甥の文武天皇に協力し、701年の大宝律令の編纂を主催し、太政官の統括者でした。高松塚古墳は八角墳ではなく円墳ですが、有名な壁画は皇族のトップに相応しいと言えます。
奈良文化財研究所藤原宮跡資料室
香具山の麓にある研究所附属の見学施設です。飛鳥時代には、瓦は寺院のみに使用されており、藤原京から宮殿の建造物に本格的な瓦が葺かれました。瓦や土器の変遷が展示されており、また宮殿の材木は近江から奈良坂を越えて運ばれたと解説されていました。下級役人の一日や当時の食事が再現展示されています。
古事記編纂者 太安万侶
畝傍山の麓にある橿原考古学研究所附属博物館では、太安万侶没後1300年を契機とした特別展が開催されていました。彼が編纂した古事記は712年に完成し、その後、720年に完成した日本書記の編纂にも加わったとされています。
太安万侶墓
1979年、奈良市此瀬町の茶畑で太安万侶の墓が発見されます。木櫃には火葬された骨と真珠が納められており、銅製墓誌には太朝臣安萬侶の文字、そして養老七年(723年)と亡くなった年も記載され、続日本紀の記載と一致したのです。
ちひろ美術館 東京
東京の練馬区にあるちひろ美術館です。彼女が亡くなるまでの壮年期の22年間を過ごした自宅兼アトリエ跡にあります。1972年頃のちひろのアトリエが再現されています。彼女の両親の出身地にある安曇野ちひろ館とともに、彼女の描いた子どもや花は、いのちの輝きと平和の大切さを静かに暖かく語ってくれます。
練馬区立牧野記念庭園
NHKの連続テレビ小説「らんまん」のモデル、植物学者牧野富太郎が63歳の大正15年から94歳で亡くなる昭和32年までの30余年を過ごした住居と庭の跡地です。生涯に発見・命名した植物は1500種類。先立った妻に感謝して命名したスエコザサや博士が使っていた書屋等々を見学できます。
小石川植物園
東京の文京区にある植物園です。前身は徳川幕府による1684年の小石川薬園、1722年には、山本周五郎による「赤ひげ」の舞台である小石川養生所が創設されます。1877年には東京大学の植物園となり、牧野富太郎が在籍した東京大学植物学教室もこの地にありました。写真は公開温室で、手前にはニュートンの生家にあった木の枝を接木した「ニュートンのリンゴ」や「メンデルのブドウ」がありました。
新宿歴史博物館
新宿の博物館を訪問してみました。江戸時代の甲州街道の最初の宿場が内藤新宿です。当初、甲州街道の最初の宿場は高井戸宿であり、日本橋から約4里(16km)と遠く、元禄12年(1699年)に、新しい宿場町として開設されました。今更ですが、それで新しい宿なのですね。写真には再現された防火建築としての蔵造り商家です。