あさひ舟川 春の四重奏

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富山県の北部、朝日町です。北アルプス北部の朝日岳ほかの白い山並み、ピンクの桜、黄色い菜の花、赤いチューリップの四重奏が楽しめます。今年は菜の花が隣の畑に咲いていて3重奏でしたが、3色のチューリップが植えられており、色彩的には5重奏になっていました。

シャルマン火打スキー場

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新潟県能生は豪雪地域で、スキー場では5月まで雪が残ります。スキー場のトップまでリフトを使用してそこから放山まで1時間弱のハイクアップで、春山登山やバックカントリーが楽しめます。右が新潟焼山、左は火打山です。

燕温泉と妙高山

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新潟県妙高市の燕温泉です。4月中旬、雪解けがすすみ、訪問前日から黄金の湯が再開したとのことで、妙高山に見守られながら、ぜいたくな貸し切り状態の露天風呂を楽しみました。

前島記念館

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スキーと温泉の帰りに見学しました。前島密は上越高田市の出身でここは生家跡に建てられた記念館です。日本近代郵便の父で「郵便」「切手」「葉書」は彼が名称を定めました。1円切手の肖像が有名です。大河ドラマでも、渋沢栄一をトップとする「改正掛」の中で通信や交通のインフラ整備を訴える様子が描かれていましたが、ほかにも、漢学廃止、江戸遷都、鉄道敷設、訓盲院、早稲田大学創設など、多方面に業績を残しており、日本近代化の大恩人であることがよくわかりました。

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「おわら風の盆」で有名な富山県八尾市にある和紙工房、ショップ、民藝展示館です。八尾和紙は越中和紙の一つですが、ここが八尾和紙の唯一の工房です。芹沢銈介から型染に使う和紙を依頼され、水にぬれても破れない丈夫な和紙を作り始めたそうです。売店には色彩豊かな和紙やおしゃれな和紙小物が並びます。建物は小学校を移築したもので、展示スペースには、芹沢作品はもちろん、紙に関連した民藝品が並びます。ノスタルジックな雰囲気の喫茶室も魅力的でしたが、残念ながら、コロナ禍でお休み中でした。

木曽義仲像

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倶利伽羅峠の富山側、埴生護国八幡宮にある銅像です。義仲の父、義賢が兄義朝の長男義平に討たれた後、義仲は木曽で育てられます。義仲の兄は源頼政の養子となりますが、挙兵した頼政とともに宇治で討ち死にします。義仲にとって、打倒平家は兄の敵討ちでもあります。

倶利伽羅峠

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現在、富山県小矢部市と石川県金沢市は国道8号線や北陸自動車道で結ばれていますが、昔の北国街道は倶利伽羅峠を越えなければなりませんでした、奥の細道で芭蕉も歩いたこの北国街道の頂上一帯で1183年に平維盛と木曽義仲が激突しました。義仲の火牛の計が有名ですが、源平盛衰記の著者による創作とのことで、義仲の勝因は樋口次郎を敵の背後に迂回させ、敵の前後からしかけた夜襲が成功したことによるようです。

斎藤別当実盛

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義賢が討ち取られたとき、当時2歳の義仲は殺されるところでしたが、かつて義賢に仕えていた斎藤実盛が密かに木曽へ逃がします。その後、実盛は平家方となり今度は源氏と戦うことになります。実盛は義仲軍の諸将に気づかれないようにと白髪を黒く染めて戦います。

小松市の多太神社には鏡を手に髪を染める実盛像と宝物館に実盛の兜が納められています。

篠原古戦場 首洗い池

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倶利伽羅峠の戦いで10万の平家軍は壊滅的な敗北を喫します。4万人の敗残兵は京へと逃げ帰ろうとしますが、現在の小松市片山津温泉付近の篠原で義仲軍に追いつかれ、ことごとく討ち取られてしまいます。逃げずに堂々と戦い討ち死にした武将の首を見て、実盛と面識のあった樋口次郎は「あなむざん」とつぶやき、池で髪を洗うと墨は落ち白髪となりました。命の恩人である実盛の武士の面目を知り、義仲ははらはらと涙を流します。

奥の細道の旅で多太神社を訪れ、実盛の兜を見学した芭蕉は次の句を残しています。

むざんやな 兜の下の きりぎりす。

藤戸の佐々木盛綱像

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一之谷合戦で敗れたとはいえ、瀬戸内海に水軍をもつ平氏は強力でした。備前の児島に陣を構えた平家を源氏は攻めあぐねますが、漁師から浅瀬の場所を聞きだした佐々木盛綱は馬で海峡を押しわたって先陣を切り、源氏を勝利に導きます。浅瀬の目印、浮州岩(うきすいわ)は、藤戸石と名を変え、勝利の名石、後には天下人の名石と呼ばれ、義満→義政→細川→信長と所有者を変え、最後は秀吉が醍醐寺三宝院の庭園中央に配し、現在に至ります。謡曲「藤戸」も有名です。盛綱像の後方ではちょうど藤の花が満開でした。

霧山城址

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奈良県宇陀御杖村の三峰山へ霧氷を見に行った時、伊勢街道をさらに進むと北畠神社があることに気づきました。神皇正統記で有名な南朝方の公卿、北畠親房は伊勢を拠点に北朝と戦います。子孫は戦国大名として9世代240年、多気を拠点に南伊勢を治めますが、天正4年(1576年)に、織田信長の軍勢により落城、北畠氏は滅亡します。麓の居館跡には庭園が残り北畠神社が鎮座、そこらか本丸跡(標高560m)までは比高240mで40分ほどでした。国史跡に指定されており、続日本百名城でもあります。

北畠顕家像

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親房の長男、顕家は鎮守府将軍として陸奥へ下向し、南北朝の戦いでは各地を転戦しますが、奮戦むなしく和泉国石津で高師直軍に敗れて弱冠20歳で戦死します。若年にもかかわらず、北朝方を相手に各地で善戦し続けたことや醍醐寺文書に残る後醍醐天皇への「上奏文」から、武将としても公卿としても、非常に優れた人物であったと評価されています。大河ドラマ「太平記」では後藤久美子が演じました。

芥川山城 三好山

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信長以前に、足利将軍を追放した山城・河内・摂津の覇者で、最初の天下人、三好長慶の当初の居城です。長慶の死後に、織田信長が落城させ、入城しています。畿内が安定し、高槻城が築城されると廃城となりました。摂津峡の駐車場が冬季閉鎖中で芥川下流の高槻市立自然博物館の駐車場から歩いたのですが、芥川でカワセミを見かけました。三好山は3方を清流芥川に囲まれた天然の要害でした。