由布岳

朝ドラの「風のハルカ」で「ゆーふーゆーふー」と主人公が口ずさんでいた由布岳は、湯布院のランドマークで日本二百名山です。火山としての最終噴火は2,200年前で、頂上火口を取り巻く火口壁に西峰と東峰のある双耳峰です。麓から眺めると美しい円錐状の山容で「豊後富士」と呼ばれています。
神戸から630kmを8時間のドライブで午前3時に登山口駐車場に到着し、7時半から標高差800mを登って、2時間強で最高峰の西峰(1583.5m)に登頂しました。見晴らしはまずまずの予報だったのですが30分待っても真っ白です。引き返すと鎖場を降りることになるので、時計回りのおはち巡りを選択しましたが、これも難路で、岩をつかみロープに助けられ、やっとのことで東峰(1580.0m)へ。ここでも20分待ちましたが、山頂部のガス(雲)は晴れず、別府湾・鶴見岳・九重連山などの360度の大パノラマは拝めませんでした。
由布岳その2

左上の写真は、展望をあきらめて東峰を少し降りたところからの西峰、左下はさきほど登った西峰への鎖場のズームアップ写真です。鎖場やおはち巡り登山道は足場が悪く、八海山の八ツ峰よりも厳しいルートでした。帰路、標高を下げるとガス(雲)はなくなり、右下に湯布院盆地が見えました。
COMICO ART MUSEUM YUFUIN

湯布院へ移動して、マップで見つけた美術館に入りました。2022年のグランドオープン、隈研吾の建築で外壁は黒い焼杉、おしゃれです。2階のカフェの外のワンちゃんは奈良美智とわかりますが、「あおもり犬」でも「ゆふ犬」でもなく「Your Dog」というお名前でした。カフェから眺めていると由布岳山頂の雲が取れていきました。
村上隆・杉浦博司

このMUSEUMには、草間彌生、宮島達男、杉本博司、村上隆、奈良美智などの作品が展示されています。上は村上隆の「Kawaii! Vacances d’été: Above Us, the Azure Sky, 2016」、お花シリーズですね。下は杉浦博司の「海景」「光学硝子五輪塔」です。なおcomicoは漫画アプリで、MUSEUMの母体はその運営企業さんでした。
湯布院

大正時代に油屋熊八(あぶらやくまはち)が別府の奥座敷として別荘、現在の老舗旅館「亀の井別荘」を建てたことから由布院温泉の知名度が高まりはじめました。駅から金鱗湖への道沿いに飲食店や雑貨店が並んでいますが、高層建築や大規模開発を認めず、由布岳と田園風景を残した町づくりに多くの人が心を癒されるのでしょう。
阿蘇神社

阿蘇神社が崩れたニュース映像は衝撃でした。楼門は、鹿島神社、筥崎宮とともに日本三大楼門に数えられ、阿蘇神社の他の5棟とともに重要文化財です。噴火への畏敬と阿蘇山のもたらす伏流水への感謝が信仰の源なのでしょうね。左下は昭和6年当時の写真です。平成28年(2016年)の地震で右下の写真のように被災しましたが、令和5年12月に復旧工事が完了しました。来年4月は熊本地震から10年です。
大観峰

大観峰という名前は、歴史家でジャーナリストの徳富蘇峰が大正11年に名づけました。東西18km、南北25kmと世界でも有数規模のカルデラ外輪山や、涅槃像に例えられる中央火口丘の阿蘇五岳(根子岳、高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳)が壮観です。
阿蘇カルデラは27万年前から9万年前の4回の巨大火砕流噴火(カルデラ噴火)でできた景観です。素晴らしい景観ですが、地下のマグマを想像してしまいます。ちなみに7300年前の喜界カルデラ噴火では九州南部の縄文文化が消滅しています・・・。
鞠智城(きくちじょう)

663年の白村江(はくすきのえ)敗戦後に中大兄(天智天皇)が、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて整備した古代朝鮮式山城の一つです。九州では大宰府の東西に大野城と基肄(椽)城(きいじょう)、そして有明海の菊池川中流に、この鞠智城を整備しました。今回の訪問で3つの古代山城をコンプリートできました。ここは八角形の鼓楼が有名です。ほかに米倉、兵舎、板倉(武器庫)が復元されており、防人とその家族や百済亡命貴族の像があります。ガイダンス施設では、城内で発掘された、百済系銅像菩薩立像が特別展示されていました。八角形の柱跡とともに亡命百済官人が鞠智城築城に関与した物証として価値があるとされています。
菊池や山鹿は栗の産地で、ガイダンス施設の隣は「栗と空」という名前の素敵なカフェでした。モンブラン&モンブランソフトでスイーツランチをしました。
南阿蘇村のにごり湯温泉

秋田の乳頭温泉と同様に、適温のにごり湯が足元から自噴する奇跡の温泉です。200年の歴史があり、江戸時代は熊本藩の武士のみに入浴が許されていたそうです。熊本地震後の豪雨による土石流で埋没してしまいましたが、それでも湧き続ける温泉に励まされて地震から3年後の2019年に復旧、宿泊施設は2021年に再開にこぎつけたとのことです。細く曲がりくねった道路の先にある素晴らしい秘湯です。
熊本地震 震災ミュージアム KIOKU

南阿蘇村の旧東海大学阿蘇校舎は真ん中を断層が貫いており震災遺構として保存されています。隣接する震災ミュージアムでは大破した自動車や阿蘇大橋の看板などが展示され、シアターでは震災当時の映像が紹介されるとともに、地震のメカニズムや次世代への教訓が展示されています。小学生の団体が震災授業を受けていました。
震度7が連続して起こることもあると知らしめた地震でした。
韮山城

戦国時代のはじまりと終わりを象徴する伊豆の国市にある平城です。伊勢新九郎(北条早雲)は足利義政の政所執事である伊勢貞親の甥で、妹が駿河守護今川家の室となり、1488年頃に駿河東端の興国寺城を任されます。新九郎は堀越公方として伊豆を支配していた足利茶々丸を、彼に生母と実兄を殺された異母弟で将軍となった足利義澄の命令で追放し、1493年に韮山城に入り伊豆支配の拠点とし、後半生をここで過ごしました。山麓には、頼朝が流された蛭ヶ小島や江戸時代の韮山代官江川宅があります。1590年の秀吉による小田原攻めの際には北条氏規が3カ月の籠城戦を戦いますが、降伏開城した後、1601年に廃城となりました。見晴らし不良という富士見予報にもかかわらず、本丸跡から富士山を見ることができました。
筏場のわさび田

信州そば「そじ坊」で生わさび(外国産?)を擂って食べたのが生わさびとの出会いでした。数年前、安部川上流の有東木(うとうぎ)付近でわさび丼を食べた際に、香りと甘味に驚きました。今回、1892年(明治25年)頃に考案された「畳石式わさび田」の景観を中伊豆に見に行きました。平成30年に「世界農業遺産」に認定されています。清流の谷いっぱいに拡がるわさびの棚田に感激しました。棚田を守り、ニッポンのわさび、本物のワサビ、を生産する人たちがここにいるのです。
伊豆わさビジターセンター

静岡のわさび生産地の7割が集中する伊豆市の山間部に2024年4月にオープンした、わさびを学び紹介するセンターです。「ようこそ伊豆わさびの郷へ」はドローンを駆使したわさび田の美しい景観や生産・流通・消費のようすがよくわかる映像です。
飛鳥京遺跡で出土した木簡(685年)に「委佐俾三升(わさびさんしょう)」とあり、平安時代918年の本草和名(ほんぞうわみょう、日本最古の薬草辞典)には、山葵、和佐比と記されています。当時、採集困難な薬草として珍重されていたようです。センターの解説展示では、わさびの葉に含まれるイソサポナリンの美容効果、また根茎に含まれる成分による抗アレルギー作用や認知機能改善作用、脂肪燃焼作用などの様々な健康作用が紹介されていました。栽培はむつかしいのですが、標高1,400メートル級の天城山が、暑さが苦手なわさびに日陰を作り、山に降り注いだ大量の雨が多孔性火山岩が堆積する地下にしみ込み、ミネラルをたっぷり含んだ湧水が1年を通じて流れ続けている、この奇跡的な条件が、中伊豆をわさびの一大産地にしました。道の駅で生わさびを2本買って帰り、香りやさわやかな辛みを楽しみました。
「あの独特の風味について、人間がかれこれ言う必要はない。・・・・わさび美し。わさびを産するわが村美し、わが県美し。」(「静岡わさび」の巻頭文 井上靖)
狩野城

伊豆半島の狩野川は狩野川台風の名前で知っていましたが、中流に狩野城を見つけました。藤原南家出自の工藤氏は1050年頃に狩野川流域を拠点とし、7代目の工藤(狩野)茂光は源頼朝の挙兵時に石橋山合戦で亡くなりますが、子孫は鎌倉および室町時代と続き、1498年に北条早雲に敗れ、小田原へ移封されるまで、約300年間ここを拠点としました。ところで1432年に一族の狩野景信は足利義教に画才を認められ、息子の正信は絵師集団「狩野派」を作り上げて、足利義政に仕えます。安土桃山時代や江戸時代に活躍した狩野派の出自を思いがけず知りました。
浄蓮の滝

石川さゆりの「天城越え」の歌詞で有名な滝です。日本の滝百選の名瀑で落差は25mです。滝のそばに歌碑がありますが、竜飛崎とは違って歌の流れるボタンはなく残念です。滝の右側に見事な柱状節理があります。1万7000年前に北側にある鉢窪山スコリア丘の噴火で流出した玄武岩溶岩流の末端崖の柱状節理です。下流はマス釣り場でにぎわい、川沿いには末端崖からの湧水を利用した可愛いワサビ田があります。
伊豆近代文学館・伊豆の踊子

川沿いの国道を北上すると天城峠の手前に道の駅「天城越え」があります。昭和の森会館は、森の博物館、ジオパークビジターセンター、文学館で構成されています。文学館の川端康成コーナーには伊豆の踊子冒頭の直筆原稿がありました。読み手を瞬時にその場所にいる主人公に同化させてくれる名文です。
下左は湯ヶ島の湯本館の外観で、下右は川端康成が19歳の時、そこにすわって踊子を眺めた湯本館の階段です。湯本館は作家の定宿で「伊豆の踊子」はじめ多くの小説がここで書き上げられました。湯本館の写真は数年前に宿泊したときのものです。
井上靖旧邸・しろばんば

井上靖をはじめて知ったのは小説「額田女王」でした。「あかねさす紫野行き」の和歌から興味を持ち高校生の時に読んだのでした。久しぶりに新潮文庫を手に取り、上品な表紙画は上村松篂と気づきました。社会人になってから、映画「天平の甍」や大河ドラマ「風林火山」を観たときに、原作が井上靖と知り、偉大な作家であると認識しました。今回、「しろばんば」は雪虫であるということ、井上靖が湯ヶ島で義曾祖父の妾と暮らし育てられたことなどを知りました。複雑な家庭環境や湯ヶ島の豊かな自然が、人間観察力や感受性を養い文豪が生まれる土壌になったのだなと感じました。
伊豆の踊子の宿「福田屋」

一高生だった19歳の川端康成は湯本館を出て旧天城トンネルの手前で踊子一行に追いつきます。そこから一緒に歩き湯ヶ島で「福田屋」に宿をとります。川向いの木賃宿に宿泊する踊子は共同浴場から「両手を一ぱいに伸ばして何か叫んいる。」「・・私は・・・ことこと笑った。」あの有名なシーンのまさに川端康成が宿泊した部屋に泊まることができました。右下は現在の共同浴場で当時とは位置が異なるようです。部屋の中には、踊子の太鼓、伊豆の踊子の文庫本などが、置いてありました。
映画「伊豆の踊子」

伊豆の踊子は6回映画化されていますが、私の時代は百恵と友和で、それ以前は知りませんし、百恵・友和の映画も実は観ていません。この宿には全6回の写真とサインが展示されており、映画撮影の際は毎回、監督や出演者がここを訪れたようです。左上は文学記念碑が建立されたときの川端と当時の女将さん、左下は吉永小百合と高橋秀樹。ところで、映画では「わたし」はその時代のイケメンが演じていますが、「わたし」は若き日の川端康成のはずで、秀吉を演じるような男優が演じないと原作とかけはなれた内容になっているような気がします・・・。坂本龍馬もイケメンが演じるのは違うと思いませんか?
大室山山頂部

観光地ではありますが、手ごろなサイズの美しいスコリア丘で展望も素晴らしいので引き寄せられてしまいました。山自体が天然記念物(2010年指定)で、保護のためなのか、トラブル防止等々のためか登山道はなく有料のリフトで往復します。山頂火口内に浅間神社があり、火口縁の鳥居と富士山を撮影できました。南東には輝く太平洋に浮かぶ大島はじめ伊豆諸島、南西には日本百名山の万三郎岳(1405m)を盟主とする天城連山が連なります。
大室山スコリア丘

リフト乗り場からの斜面は結構急ですが、山麓北西側のさくらの里からは穏やかな山容を眺めることができます。太平洋プレートがフィリピンプレートに沈み込み、マグマが生じてフィリピンプレートに海底火山や火山島が2000万年前にできました。それらがフィリピンプレートの北西への移動で100万年前に本州に衝突してできたのが伊豆半島です。この伊豆半島には東西に伸長する力がはたらき、マグマが上昇しやすい多数の割れ目が生じ、1度限り噴火する単成火山群、伊豆東部火山群が15万年前にできました。大室山は4000年前の噴火でできた単成火山で、マグマが吹き上がって飛散冷却した多孔質のスコリアが堆積して円錐台形となったスコリア丘です。1300年前から毎年2月に野焼きが行われ美しい緑の景観となっています。また城ヶ崎海岸は大室山スコリア丘の近辺から噴出した溶岩流が相模湾に押しだしてできた景観です。
箱根大観山

箱根の山は天下の険と歌詞にありますが、衛星画像などで見ると見事なカルデラ地形とわかります。23万年前から18万年前に大規模噴火があり箱根カルデラが形成されました。6.5万年前以降、中央火口丘の火山活動で仙石原湖や芦ノ湖などの堰止湖が形成され、仙石原は湿原となり芦ノ湖は湖として残りました。横山大観ゆかりの大観山(たいかんざん)は外輪山の南端に位置し、芦ノ湖と北西側の外輪山の上に富士山が見えるという絶好の展望台です。広い無料駐車場(標高1011m)が整備され、食堂とティーラウンジのある展望レストハウスや「箱根のぶらんこ」は写真スポットになっています。富士山の手前に雲がありますが、ときどき山頂部が見えました。





