志賀高原から信州五岳
上信越国立公園に指定されている志賀高原には多くのスキー場が拡がっています。志賀高原中央エリアで最も標高の高い寺子屋スキー場からの眺めです。右側には妙高山をはじめとする信州五岳、左奥には白馬岳など北アルプス後立山連峰が見えます。
志賀高原スキー場
東舘ゴンドラ山頂駅テラスから妙高や後立山連峰を眺めます。ゴンドラ直下の東館山スキー場は長野五輪の大回転会場でオリンピックコースの名が残っています。大回転(GS)とスーパー大回転(SG)2冠のヘルマンマイヤーは忘れられません。テラスの山側はルーフトップダイニングでチーズフォンデュが楽しめます。寺子屋スキー場の樹氷や奥志賀スキー場からの岩菅山(日本二百名山)など白と青のコントラストが素敵な一日でした。
志賀山温泉
ジャイアントコースからワールドカップで使用された西館山スキー場と起点の志賀山温泉を眺めます。熊の湯とともに濁り湯の温泉で、おいしい地酒と食事を楽しみました。自然保護センターでは火山がつくりだした地形や豊かな動植物の解説があり、湖沼や湿原や東館高山植物園など初夏のトレッキングにも興味が湧きました。
飛鳥宮跡
飛鳥(とぶとり)の明日香の里を 置きて去(い)なば 君が辺(あたり)は 見えずかもあらむ(元明天皇) 「飛鳥(とぶとり)の」は明日香の枕詞ですが、万葉集のこの和歌から「飛鳥」を「あすか」と読むようになったという説があります。
皇極天皇の飛鳥板蓋宮は、この地にありました。大化の改新の始まりである645年の乙巳の変の舞台です。中大兄皇子らのクーデターで蘇我氏は滅ぼされました。
都塚古墳
明日香が都となったのはこの地が蘇我氏の本拠地だったからという説があります。蘇我氏は橿原市曽我町出自の豪族で明日香を拓きました。この古墳は明日香を一望できる飛鳥川上流域の高台にあり、蘇我稲目の墓と言われています。高句麗・百済の積石塚に似た階段ピラミッド構造の古墳で、異国調の古墳という趣だったのでしょう。
石舞台古墳
都塚古墳から明日香の里へ下った地にある巨大な方墳で、昭和8年当時は水田に天井石のみ見える状況でしたが、その後の発掘で壮大な石室が露出しました。古墳の下流側には島庄(しまのしょう)遺跡があり、日本書紀の飛鳥河の傍(ほとり)の嶋大臣(しまのおとど)の記述に合致することから、蘇我馬子の「桃原墓」と考えられています。桜の名所ですが、桃の木に植え替えるべきかしらん?
菖蒲池古墳
蘇我氏の居館があった甘樫丘東麓の南側にある方墳で、長大な石室内には精巧な造りの2基の石棺があります。東側の明日香養護学校敷地内には巨大な方墳の小山田古墳が発見されており、小山田古墳と菖蒲池古墳を、日本書紀にある蘇我蝦夷・入鹿の大陵と小陵とみなす説があります。乙巳の変の後に、馬子の石舞台古墳や蝦夷の小山田古墳は削平され、蝦夷と入鹿の2名は菖蒲池古墳に合葬されたという説に私は魅力を感じます。飛鳥京跡の南側の東から西へ、蘇我稲目から入鹿まで4代の古墳が並んでいることになります。
橘寺
十一代垂仁天皇のときに田道間守(たじまもり)は命を受けてトコヨの国に不老長寿の薬を求めに行き、「トキジクノカグノコノミ」を持ち帰ります。これを蒔くと橘(ミカンの原種)が芽を出し、この地は橘と名づけられました。572年当時、この地には欽明天皇の別宮があり、ここで聖徳太子が生まれたとされています。聖徳太子は欽明天皇の孫、用明天皇の子、また母方では蘇我稲目の曽孫にあたります。
「飛鳥・藤原の宮都」は、2026年には、世界文化遺産に登録されそうですね。
特別展 中国陶磁・至宝の競艶
大阪中之島の大阪市立東洋陶磁美術館では、大阪市と上海市の友好都市提携50周年を記念して日本の国宝に相当する1級文物10件を含む50件の中国陶磁の名品が上海美術館から出品されています。上は東洋陶磁美術館の誇る国宝油滴天目茶碗です。下には中国の1級文物が並びます。下右は清の康熙帝時代・景徳鎮窯の印盒(いんごう)で「窯変による奇跡のアップルグリーン」が特徴です。左下は北宋時代・汝窯の青磁盤で最高峰の青磁「雨過天晴」と称賛される逸品です。
緑地粉彩八吉祥文瓶
「りょくじふんさいはちきっしょうもんへい」と読みます。パステルカラーの緑地に粉彩によるカラフルな色合いで「八吉祥」と呼ばれるチベット仏教の文様が描かれています。清の乾隆帝時代に景徳鎮窯で生産された珠玉の逸品です。