中ノ湯跡から磐梯山
9月の好天の土曜日、「道の駅ばんだい」で仮眠の後、登山口の八方台第1駐車場に向かうと午前7時で満車の盛況でした。緩やかな坂道を登り中ノ湯跡に着くと青空の磐梯山が見えました。左奥の廃屋が旧中ノ湯で1990年代まで営業していたそうです。
磐梯山頂
山の神とゆっくり登って、2時間30分で山頂につきました。4年前はガスガスでしたが、今回は展望に恵まれました。山頂標識の左は猪苗代湖、右は会津若松の町です。
磐梯山は万葉集では会津嶺と詠まれています。奈良時代、806年に会津嶺は噴火、翌年、藤原仲麻呂の息子で法相宗の僧、徳一(とくいつ)上人が「奥州会津石梯山(いしはしやま)に清水寺(慧日寺=えにちじ)を建立」と古書に記載があります。寺は火山災害の鎮魂・救済・復興の拠点だったのでしょうか。石梯山が磐梯山に変化し、「ばんだいさん」と呼ばれるようになったようです。山頂には石の祠があり直下の岩に磐梯明神と刻まれています。
磐梯山から猪苗代湖
山頂から眺めると小さく見えますが、猪苗代湖は日本で4番目に広い湖で、9万年前と4.2万年前の2度の磐梯山噴火の火砕流による堰止湖です。野口英世の生家と記念館は写真の真ん中あたりです。右奥は那須連山、さらに右奥は男体山などの日光連山です。
裏磐梯方向
左に猫魔スキー場、その奥が飯豊連峰、右が吾妻連峰。正面が檜原湖、檜原湖の右手前に有名な五色沼。右へ小野川湖と秋元湖。右手前の荒々しい崩壊地が、1,888年(明治21年)に477名の犠牲者を出した小磐梯山の噴火及び全山体崩壊の跡です。噴火以前には右手前に大磐梯山にほぼ匹敵する小磐梯山が聳えていたのです。
磐梯山から月山
噴火は周囲に壊滅的な災害・変化をもたらしますが、長い年月の後には美しい風景となります。裏磐梯の湖沼地形は噴火により形成されました。国立公園に指定され、高原リゾート地となっています。檜原湖の奥が朝日連峰で右奥には月山も見えています。
檜原湖の左奥には以前に金山があり、猪苗代湖側にも2か所の金山がありました。民謡で「宝の山」とうたわれるのは火山がもたらした鉱物資源を指しているのかもしれませんね。
只見町の河合継之助記念館
登山の翌日は只見町へ。本年、役所広司主演の「峠 最後のサムライ」が公開されました。また、2005年のテレビドラマ「河合継之助 駆け抜けた蒼龍」の主演は故中村勘三郎で感動しました。只見町の記念館には、継之助が息を引き取った建物が保存されています。
「民は国の本 吏は民の雇(やとい)」の言葉を残しています。高潔な人です。臨終に際して「これからは商人の時代」と言葉をかけられた従者の外山脩造は、後に関西で活躍し、アサヒビール・大阪ガス・阪神電鉄の創立に貢献しています。
叶津(かのうづ)番所
会津藩に属していた只見町の番所跡で、長岡からの八十里越えの峠道はここへつながります。新政府軍に敗北し、足を銃弾で打たれた継之助は担架でここへ運ばれました。「八十里 腰抜け武士の 越す峠」の句を自嘲して詠んだと言われています。
八十里越えの国道は2026年開通予定とのことです。またJR只見線は豪雨災害から11年ぶりに復旧し、10月1日から運転を再開しました。只見町は、美しい自然、伝統文化、戊辰戦争の記憶、JR只見線、只見川の電源開発の歴史、等々を持つ素晴らしい地域です。
塩沢つむぎ記念館
新潟県魚沼郡の南部、巻機山の南西が旧塩沢町です。塩沢産コシヒカリを生む水田も、冬は雪に覆われ、巻機山を背景に3月に行われる春の風物詩が、越後上布の雪晒しです。麻布を雪に晒すとオゾン効果(?)で、白さが増すのです。天平3年(731年)に越後の国から献上された越後上布は正倉院に現存し、ユネスコの無形文化遺産に登録されています。記念館では、塩沢4大織の展示と解説があり、塩沢紬(絹織物)の織り体験ができます。
鈴木牧之生家
以前、巻機山に登った際、深田久弥の「日本百名山」で、江戸時代の文筆家、鈴木牧之の「北越雪譜」に機織りや養蚕の神の住む山として記されていると知りました。雪国の生活や文化を記載した「北越雪譜」は江戸時代のベストセラーで、鈴木牧之記念館で詳しく学ぶことができます。三国街道の塩沢宿は雁木のある風情ある街並みとして整備されています。
碓氷第三橋梁
鉄道150年ということで碓氷第三橋梁を訪問しました。以前の信越本線は、高崎から碓氷峠を越えて軽井沢、長野、直江津、新潟に至る路線でしたが、1997年(平成9年)、新幹線開業に伴い、碓氷峠越えの横川・軽井沢は廃止されました。橋梁はレンガ造りで1893年(明治26年)の竣工です。明治の人々の努力に頭が下がります。橋梁は、
1963年(昭和38年)にアプト式鉄道が廃止されるまで使用されていました。橋の上は遊歩道になっています。
「しげの屋」元祖力餅
旧中山道の碓氷峠にあるお休みどころです。力餅は小さいお餅が竹筒に7,8個並んでいて、きなこやあんこやエゴマなどがあり、美味でした。おそばメニューもあります。ヤマトタケルがこの峠からオトタチバナ姫を偲んで「吾妻はや」とつぶやき、関東があづまと呼ばれるようになりました。多くの旅人や戦国大名、そして大名行列や篤姫も越えた峠です。
ベルツ記念館
草津温泉手前の道の駅に併設されています。ベルツはドイツ人で、明治初期に日本政府が招いたお雇い外国人であり、東京大学医学部の教師、日本近代医学の父と呼ばれています。日本人女性を妻に迎え、長く日本に滞在しました。蒙古斑を論文にした業績があります。また草津を世界第一級の温泉保養地として世界に紹介しました。
草津の湯畑
草津白根火山の火山ガスが溶け込みマグマで温められた地下水は粘土層の上部をとおって草津温泉付近に湧出します。温泉街の中心部の源泉「湯畑」は有名で湯樋にて温度を下げています。温泉は強酸性で硫酸アルミニウムをふくみ、ベルツが訪ねた当時は、ハンセン病、梅毒等の多くの患者が療養し、ベルツや宣教師コンウオール・リーによりハンセン病に効く湯治場として認められました。温泉街近傍の湯ノ沢にはハンセン病集落ができていました。
チャツボミゴケ公園
草津温泉街から車で30分ほど走りますが、立派な駐車場と整備された遊歩道があります。チャツボミゴケは、強酸性の温泉水を好む珍しい苔で漢字では茶蕾苔となります。元群馬鉄山の鉱山跡で、チャツボミゴケと鉄バクテリアの働きで褐鉄鉱が生成されるという記事をみかけました。緑の美しいビロードのようで、苔庭のような風景として楽しめます。
重監房資料館
グーグルマップ検索で気になったので訪問しました。戦前の「らい予防法」でハンセン病患者は療養所に強制収容されました。逃亡を企てた患者等が裁判もなしに押し込められた監房がここ草津の地にかつて存在しました。このような施設があったことは全く知りませんでした。映像や展示でハンセン病患者への差別や人権の軽視が引き起こした壮絶な現実に向き合うことができ、深く考えさせられます。草津を訪れる際にはぜひ訪問してください。
横手山頂ヒュッテ
帰路は志賀草津道路をとおり、横手山へリフトで行きました。日本で一番標高の高いパン屋として有名な横手山頂ヒュッテの看板メニュー、ボルシチとパン生地で覆われたきのこスープを頂きました。また、リフト駅にあるクランペットカフェの展望シートでカフェラテを楽しみました。晴れれば、北アルプス、浅間山、奥秩父山塊、富士山が見えます。