大湯環状列石

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秋田県鹿角市の十和田大湯で昭和6年に発見された約4000年前の縄文時代後期の遺跡です。同様の遺跡には、北秋田市の伊勢堂岱遺跡、青森市の小牧野遺跡等があります。世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」を構成する17の遺跡群の一つです。ここには、直径50m前後の2つの環状列石があり、2つの中心と各々の内部にある日時計状組石は直線状に並び、夏至の日没方向を示します。100以上の配石(組石)が2重の環状に配置され、配石下には穴が、周囲には祭祀施設があり、配石墓群と考えられています。

御所野遺跡

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岩手県二戸郡にある5000~4200年前の縄文遺跡で800棟超の竪穴建物跡が見つかりました。配石遺構を中心に3つの集落が復元されています。焼失建物跡の調査から竪穴建物の屋根を土で覆っていたことがわかり、そのように復元されています。

三戸城

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甲斐源氏の加賀美光行は石橋山の戦いで戦功を挙げ、甲斐国南部牧に領地を得て南部氏を名乗ります。さらに奥州合戦の戦功で陸奥国糠部(ぬかのぶ)郡の土地を給され、嫡子・実光の代に三戸の地に本拠地を構えます。三戸城は、戦国末期に24代当主晴政が築城しました。手前は民俗資料館、奥の模擬天守は南部家の解説やゆかりの品を展示する温故館です。

九戸城

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実光の兄弟は根城(八戸)や九戸を所領とし、子孫は根城南部氏、九戸氏を名乗ります。秀吉の小田原攻めの時、三戸を本拠とする宗家の晴政は秀吉に接近服従し、奥州仕置に協力。反発する九戸政実は籠城しますが、豊臣秀次を総大将に蒲生、浅野らの6万の征討軍に包囲され投降。投降時の約束は反故にされ、決起軍5千人は撫で斬りにされたと伝わります。乱の後、蒲生氏郷により改修され、盛岡城に移るまで南部宗家が本城としました。

姫神山から岩手山

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岩手山の東にある姫神山(1124m、日本二百名山)の山頂まで、登山口から1時間半ほどでした。南部富士の名のとおり、北上川を挟んで富士山型の岩手山が望めます。岩手山の右は八幡平です。5月初旬の登山道沿いにはたくさんのカタクリが咲いていました。

石川啄木記念館

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姫神山の麓、啄木が育った盛岡市渋民に記念館があり、隣には、彼が教鞭を執った渋民尋常小学校と間借りした齊藤家が移設されています。記念館の東に姫神山、西に岩手山が聳えており、姫神山登山口へは車で10分ほどです。「ふるさとの山に向かひて言うことなし」の作者をはぐくんだ渋民は、名山に抱かれ、北上川が流れる美しいところです。

白河の関跡

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1800年に白河藩主・松平定信は、この地に古関蹟碑を建立しました。奥州街道より東側の旧街道上で栃木と福島の県境付近です。周囲はごく普通の里山ですが、能因法師や西行ゆかりの歌枕の地で、芭蕉も奥の細道の旅で街道をそれてわざわざ立ち寄っています。奥の細道は全編が素晴らしいのですが、白河の関のくだりも古歌をたくみに引用した名文です。

遊行柳

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奥州街道、那須の芦野にある歌枕の地です。田の畔に柳の木があるだけなのですが、西行の歌「道のべに清水流るる柳かげ しばしとてこそ立ちどまりつれ」の柳の木であり、それをふまえた能「遊行柳」の舞台でもあり、映画やドラマのロケ地のような場所です。ここで芭蕉が詠んだのが「田一枚 植えて立ち去る柳かな」です。私も田植えをしばし眺めました。

日本考古学発祥の地

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モースの大森貝塚発見(1877年)より200年前の1678年、草むらに埋もれていた那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)が栃木県大田原市で発見されました。十数年後、それを知った領主の水戸光圀は、笠石神社を創建して石碑を祀り、国造の墓と考えた上下の侍塚古墳の調査を佐々介三郎(さっさすけさぶろう=すけさん)に命じ、発掘は元禄5年(1692年)に行われ、記録され整備されました。2つの前方後方墳は現在では西暦400年前後の古墳時代の築造と判明しており、その当時の豪族の墳墓と考えられています。

那須国造碑

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下侍塚古墳のそばに大田原市なす風土記の丘湯津上資料館があり、石碑のレプリカが展示されています。碑文の解説や侍塚古墳発掘の記録や「すけさん」の手紙も展示されています。碑文は唐の則天武后時代の年号である永昌元年(689年)の4文字で始まり、飛鳥浄御原、国造(くにのみやつこ)評督(こおりのかみ)など、持統朝での地方豪族の官人任命の実際を伝えており、北魏風の書体の貴重性も相俟って、国宝に指定されています。

最澄と天台宗のすべて

 

5月中旬の京都国立博物館、伝教大師1200年大遠忌特別展です。最澄自筆の「弘法大師請来目録」、また「刺納衣」は最澄が入唐した時に師の行満から譲り受けたもので、天台宗の開祖「智顗(ちぎ)=天台大師」所用(隋時代)と伝えられています。小野道風筆の円珍への智証大師諡号勅書、中尊寺の秀衡経など、国宝や重文が並ぶ素晴らしい展覧会でした。

ポンペイ展の三美神

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京都市京セラ美術館のポンペイ展に出展されているフレスコ画です。1500年前後のルネッサンス期のボッティチェリやルーベンスの三美神というテーマが、すでに紀元0年頃のポンペイにおいてフレスコ画で描かれていました。発掘された数々のフレスコ画や彫刻は優品ばかりで、ローマ時代の高い文化レベルを改めて感じました。

山中温泉 菊の湯

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ここも「奥の細道」ゆかりの地です。「温泉(いでゆ)に浴す。其効(そのこう)、有間に次(つぐ)と云(いう)。山中や菊はたおらぬ湯の匂」 魏の文帝の時代の、菊の露を飲んで七百歳まで生きた菊慈童の故事、それを踏まえた能「枕慈童」、日本酒の「菊正宗」もそれにあやかっています。菊がいらないほどの長寿をもたらす湯の匂とは最高の褒め歌ですね。

「月さびよ」句文懐紙

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山中温泉街にある「芭蕉の館」は芭蕉が逗留した泉屋の隣地にあり、現在の建物は明治38年築とのことです。芭蕉ゆかりの資料が展示されています。新出資料としてこれが展示されていました。奥の細道を大垣の地でむすびとした後、芭蕉はすぐに伊勢詣の旅に向かいます。伊勢山田の門人宅に逗留した際、その妻へお礼として懐紙を送ったとされています。光秀の越前時代、連歌会を催すお金を妻の煕子(ひろこ)が髪を売ってねん出したことを述べます。中央に「はせを(芭蕉)」、その左に「月さびよ 明知が妻のはなしせむ」

那谷寺(なたでら)の奇岩遊仙境

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芭蕉は山中温泉の次に那谷寺を訪問しますが、奥の細道では、那谷寺が先に記されています。「花山の法皇、三十三所の巡礼、那智、谷組の、二字をわかち侍りしとぞ。石山の石より白し秋の風」 あの石山寺よりも那谷寺の石山のこの地はより白い、すなわちより清浄に感じられる 吹く風も白秋の風だなあ 五行陰陽説で白は清浄、西、秋をあらわしますね。

室堂から立山

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40年前の夏、初めての北アルプス縦走で正面右の雄山を右から左へ歩き、さらに剣岳に登り早月尾根を下りました。今回はケーブルとバスを乗り継いで観光客として訪れました。朝いちばんの短時間のみ、この晴天でした。BC(バックカントリー)の人も大勢います。2024年には宇奈月と黒部ダムのルートが観光ルートとして運用開始するようです。

雪の大谷

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立山黒部アルペンルートがこの時期の観光の目玉として宣伝しています。除雪によりできた雪の壁のバス道を半分歩行者用道路にして観光するスポットです。壁の高さは、シーズン初めは15mを超えるそうです。白い雪の壁と青空の写真が撮れず、残念でした。

称名の滝

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立山駅の西を流れる称名川沿いの道路を行くと見学者用駐車場があり、そこから30分ほど歩くと滝の正面にたどり着きます。左が称名の滝(4段)で、落差日本一(350m)です。右はハンノキ滝で雪解けのこの時期のみの滝で落差は500mです。今年は残雪が多く、遊歩道沿いにまだフキノトウがありました。

立山博物館

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立山は富士山、白山と並ぶ日本三霊山の一つで山岳信仰の山でした。立山のさらに奥の剣岳への明治時代の初登頂を描いた映画「点の記」のラストシーンで頂上に突き立てられていた銅錫杖頭の実物(重要文化財)が展示されています。写真は立山詣で盛んだった往時に参拝者が宿泊した宿坊・教算坊にある立山曼荼羅(レプリカ)です。絵解き法話に多くの参拝者が聞き入ったのでしょう。

イタイイタイ病資料館

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神通川中流にある富山県の健康スポーツ施設の一角にあります。上流の三井神岡鉱山が排出した未処理廃水中のカドミウムが原因の公害病についての資料館です。当初原因不明とされた奇病について、開業医の萩野昇先生が真摯な診察、研究によりカドミウムの慢性中毒による骨軟化症と発表されたことは、医師として、人として、頭が下がるばかりです。最初に政府が認定した公害病であり、1974年には公害健康被害保障法が施行されました。保障法は成立していますが、今もなお、厳しい認定基準に苦しむ被害者がおられるようです。