早朝の尾瀬
6月初旬、山の天気予報「てんきとくらす」の予報はA、金曜日19時半に出発。午前3時に尾瀬第1駐車場に到着。5時前のシャトルタクシーで鳩待峠へ。曇り空の下、木道を歩いていくと、夢のように霧が晴れ、燧ケ岳が「ようこそ」と迎えてくれました
尾瀬の水芭蕉
尾瀬ヶ原のほぼ中央、「下の大堀川ミズバショウ群生地」です。山は至仏山(2,228m)。水芭蕉は5月下旬が見ごろだったようですが、それでも絵葉書さながらの風景に感激しました。夏がくれば思い出す はるかな尾瀬遠い空・・水芭蕉の花が咲いている・・。
水芭蕉とエゾノリュウキンカ
水芭蕉の白い部分は葉が変形した苞(ほう)です。円柱状の芯は小さな花のあつまった花序で苞に包まれています。黄色いエゾノリュウキンカはキンポウゲ科の花です。
燧ケ岳
いわゆる「かがみひうち」です。燧ケ岳から流れ出た溶岩が谷をせき止め大きな池ができ、堆積物で沼となり、水性植物は低温のため分解されず、泥炭となり、広々した湿原ができました。火山がつくったジオジャパンの絶景、池塘に尾瀬の生みの親が映えます。
法師温泉長寿館
群馬県みなかみ町の法師温泉です。明治8年開業で写真の本館はじめ3棟が登録有形文化財で、川端康成、若山牧水、与謝野晶子などが宿泊しています。観光ポスターで有名な内湯の足元には玉石が敷き詰められ、43度の源泉が自然湧出していました。
岩櫃城
群馬県吾妻郡、上州沼田と信州上田を結ぶ真田街道沿い、源頼朝が岩櫃と名付けた山の東斜面に山城が拡がります。真田幸村の祖父幸隆が攻め落とし、真田が上州進出の拠点とした城で、父昌幸が城主時代、信之や幸村(信繁)は幼少期をこの城で過ごしました。
八ツ場(やんば)ダム
黒部ダムのような放水を期待しましたが、ダムの最下部から横向きの放水でした。様々な議論のあったダムですが、2020年4月から運用開始されています。2019年の台風19号の洪水予防に役立ったという意見もあり、豪雨や浅間山噴火の泥流など自然災害予防にも役立つといいですね。
天明3年浅間やけ遺跡
天明3年(1783年)浅間山大噴火の溶岩は土石流となりこの地を襲いました。鎌原(かんばら)村は、約6m埋まり、高台の鎌原観音堂を残して全滅、死者477名、生存者はわずか93名。昭和54年(1979年)の発掘調査では埋没した階段から女性2人の遺体が発見され、年老いた母を背負った娘と考えられています。現在この地は嬬恋村の一部となり、周辺の浅間高原には別荘地や日本有数のキャベツ畑が拡がります。
真田氏歴史館
長野県上田市真田町は真田氏発祥の郷です。歴史館の隣には居館跡、裏手には真田氏本城跡があります。小さな勢力の土豪に過ぎなかった真田氏は幸隆が武田信玄に仕えて北信濃の村上義清や上州の上杉勢を駆逐して勢力を伸ばします。江戸時代の真田三代記やドラマ「真田太平記」で使用された昌幸、信之、幸村の鎧などが展示されています。
霊仙山(りょうぜんざん)
滋賀県の多賀町と米原市にまたがり、鈴鹿山脈北端に位置し、標高は1,094mです。東斜面は岐阜県の大垣市と関ヶ原町です。山頂は台地状で石灰岩特有のカレンフェルトやドリーネが見られ、秋吉台を彷彿とさせます。左が霊仙山、背景は琵琶湖です。
山頂台地から伊吹山方面
北側には伊吹山が見えます。カレンフェルトは石灰岩の節理や断層にそって、雨水が染み込み溶け出して石灰岩に溝が刻まれ、林立している状態をいいます。ドリーネ地帯は石灰岩地帯に見られるすり鉢状のヘコミです。右手前は経塚山。
霊仙山の山頂
多賀の町や安土方面、琵琶湖対岸は比良山系です。霊仙の名前の由来は米原出身の奈良時代の高僧です。第16次遣唐船(804年)で唐に渡った人で、この時、空海や最澄も入唐しています、サンスクリットの経典を漢訳するなど、唐で三蔵法師の称号を受けました。あまりにも優秀なために日本への帰国を許されませんでした。
鑑真和上と戒律のあゆみ
京都国立博物館、鑑真和上像の寺外での公開は12年ぶりとのことでした。ガラス越しではありますが、至近距離で参拝鑑賞できました。東征伝絵巻や法然上人絵伝も展示され、「戒律」「五戒」「六斎日」「受戒」「勧進」などを学べる展覧会でした。
聖徳太子と法隆寺
奈良国立博物館、聖徳太子1400年遠忌記念の特別展です。写真右の聖徳太子坐像、左の薬師如来坐像、聖徳太子二王子像(御物)、聖徳太子絵伝、夢違観音、玉虫厨子など国宝のオンパレードでした。
法隆寺
法隆寺でも特別展示等があり、久しぶりに拝観しました。大講堂北側の上御堂が特別公開されており、国宝の釈迦三尊像を拝観できましたし、初めて、開廟された夢殿に入ってフェノロサや和辻哲郎が絶賛した救世(くせ)観音像を拝観鑑賞しました。また、夢殿の北側の建物が国宝の聖徳太子絵伝を納めている絵殿と知りました。
田中一村展
京都駅にある美術館「えき」KYOTOでの展覧会、副題は「奄美へとつづく道」で、南画家としての青年期、30歳で移住し「一村」と改名した千葉時代、昭和33年に50歳で移住し69歳で亡くなるまで過ごした奄美大島時代。洗練された色彩豊かな画風に至る過程がわかる展覧会でした。「奄美・沖縄」の世界自然遺産登録勧告が7月に正式決定される見通しであり、奄美大島の田中一村記念美術館もにぎわうことでしょう。