白神岳のブナ林
日本の世界自然遺産は、屋久島、白神山地、知床、小笠原諸島です。青森から秋田に拡がる白神山地はアジア最大の貴重なブナ原生林が評価されて世界遺産に指定されています。梅雨空にわずかな晴れ間を期待して、白神岳登山口からブナ林の登山道をすすみます。
白神岳のお花畑
曇り空の下、登り始めると、すぐ本格的な雨になりました。休むと冷たいので一気に登ります。3時間足らずでブナの樹林帯を抜けて稜線にでると幸い雨はやみました。山頂手前はお花畑で紫色のコバギボウシや黄色のニッコウキスゲが咲いています。右が山頂です。
白神岳山頂
日本二百名山、白神岳(1232m)に登頂です。ここから東側(右側)がブナ林の拡がる白神山地の世界遺産核心地域です。建物はトイレと避難小屋です。白神山地の向こうに岩木山が見えるはずですが、30分待ってもガスは晴れず展望は得られませんでした。
不老不死温泉
往復5時間の登山の後は温泉です。白神岳登山口から日本海を眺めながら北上して深浦町の黄金崎までやってきました。日本海に沈む夕陽が美しい波打ち際の露天風呂として有名ですが、お昼前の入浴も最高でした。
男鹿半島の「なまはげ館」
各地域のなまはげが勢ぞろいしており壮観です。隣の「伝承館」では大晦日のナマハゲ行事が再現され、主人とのユーモアたっぷりの問答やお決まりの子供たちの絶叫など楽しい時間でした。ちなみに、なまはげは「鬼」ではなく「来訪神」だそうです。
復元古代水洗トイレ
秋田城跡東門近傍にあります。秋田城跡は奈良・平安時代の地方官庁の遺跡で、蝦夷(えみし)や渡嶋(北海道)との交流・交易及び軍事拠点でもありました。全国にも類例のない水洗トイレ跡からは有鉤条虫の卵が検出され、ブタを常食とする渤海の外交使節が使用した証拠として注目されています。
伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡
白神山地を望む北秋田市の河岸段丘にある縄文時代後期(約4千年前)の環状列石(集団墓地及び祭祀遺跡)です。「北海道・北東北の縄文遺跡群」として三内丸山遺跡等とともに世界遺産登録候補です。4基ものストーンサークル(環状列石)と配石遺構、掘立柱建物跡があります。配石遺構は日時計で、第一環状列石の中心とで夏至の日の出方向を示します。
伊勢堂岱遺跡縄文館
発見の経緯や環状列石の解説、出土遺物の展示があり、中でも数々の土偶が秀逸です。土偶は女性をかたどるものが多く、多産・豊饒・再生の呪術に用いられたとされていますが、躍動する表現に岡本太郎はじめ多くの芸術家が魅了されたのもうなずけます。
後三年合戦古戦場
前九年合戦の結果、北東北を支配した清原氏の内紛に源義家が介入した後三年合戦(1083~1087)の舞台は「かまくら」で有名な秋田県横手市です。ここは「雁行の乱れ」から義家が伏兵を見破り射止めた古戦場で公園になっています。手前が武衡と家衡、奥は清衡と義家です。近くの後三年合戦資料館の東側には、歌舞伎「暫(しばらく)」の主人公、鎌倉権五郎景正の塚があり、そこは、武衡の本拠地、金沢柵跡に比定されています。
毛利元就の郡山城跡
中国自動車道の三次インターから30分、広島県安芸高田市にある郡山城の二の丸跡です。左のやや高い所が本丸です。麓の歴史民俗博物館からの比高は190m、歩いて50分でした。尼子氏を大敗させた郡山合戦の舞台、三矢の訓えの碑や元就墓所も見どころです。
三次もののけニュージアム
三次市の新名所、正式名称は湯本豪一記念日本妖怪博物館です。江戸時代の広島藩士稲生平太郎の実録妖怪物語「稲生物怪録(いのうもののけろく)」の本や絵巻、民俗学者である湯本豪一氏の妖怪コレクション、チームラボ妖怪遊園地など親子で楽しめます。
長宗我部元親像
本能寺の変の原因は土佐の長宗我部元親の謀略という説があります。ここは高知県南国市の岡豊(おこう)城址の一角にある高知県立歴史民俗資料館前です。資料館には長宗我部展示室と高知県の考古・歴史・美術・民族を紹介する総合展示室があります。
岡豊城の詰の段
資料館の右側から10分ほどで詰(本丸)です。東側には国府・国分寺・紀貫之邸跡のある香長平野が拡がります。現在の高知市街は、中世においては湿地帯であり、その当時は、香長平野の南国市付近が土佐の中心でした。
高知城歴史博物館から高知城
頼朝の命で秦河勝の子孫が長岡郡宗我部郷に地頭として赴任し、岡豊城を本拠地として長宗我部を名乗ったとされています。長宗我部は四国を統一しますが、秀吉に屈服し土佐一国の大名へ、さらに関ケ原では西軍として敗北し、藤原秀郷末裔を名乗る山内一豊が高知城に入城します。博物館の展示は「秦藤交代(長宗我部から山内へ)」で始まります。
高知県立牧野植物園
高知が生んだ「日本植物学の父」牧野富太郎の偉業を顕彰して1958年に開園した植物園です。広大な敷地には本館、展示館、温室、ふむふむ広場などがあり、屋内では牧野富太郎の生い立ち、業績や企画展、屋外や温室では3000種の植物が展示されています。
紀貫之邸跡
奈良・平安時代は朝廷が国司を任命しており、紀貫之は930年から5年間、国司として赴任し、南国市国府付近で過ごしました。一流の歌人、文章家であり、古今和歌集仮名序とともに土佐日記は有名です。夫の赴任中に娘を亡くした女人の土佐から都へ帰るまでの日記という形式で書かれており、当時の風俗や情勢を窺い知れる点でも面白いと思います