えびの高原駐車場から韓国岳

宮崎県霧島のえびの高原駐車場から韓国岳です。左は噴煙を上げる硫黄岳、正面は韓国岳(からくにだけ)の外輪山、右が山頂部です。神戸を午前3時に出てドライブしてきました。今は午後1時です。さあ、登りましょう。

硫黄岳の噴煙

硫黄岳は警戒レベル2です。火口から距離をとるために設けられたう回路を登って本来の登山道に合流。風向きによって強烈な硫黄臭、そしてジェット機のそばにいるような轟音がしていました。地球が生きていることを実感します。

大浪池と桜島

2時半に8合目に到着。南側に火口湖の大浪池、遠くには錦江湾に桜島も浮かんでいます。

新燃岳と高千穂峰

山頂直下まで登ると東側が見えました。噴火を繰り返している新燃岳、その奥に、御鉢、高千穂峰と絶景のお出迎え。

韓国岳山頂

韓国岳1,700m山頂、日本百名山66座目です。軽アイゼン装で1時間45分でした。韓国が見えるほど見晴らしがよいという意味だそうですが実際には見えないようです。

池田湖畔より開聞岳

鹿児島市内に1泊して翌日、池田湖まで来ました。菜の花の向こうに開聞岳です。

開聞岳山頂

かいもん山麓ふれあい公園の登山者用駐車場を9時50分にスタート。円錐形の開聞岳にぐるりと巻き付く登山道を登ること2時間弱、11時40分に924mの山頂につきました。さきほどの池田湖を見下ろしています。晴れていれば奥に桜島が見えるのですが残念。

西大山駅より開聞岳

日本最南端の駅として有名な西大山駅に立ち寄りました。中国語を話す観光客がいっぱいで驚きました。皆さんレンタカーで移動していましたよ。

指宿の橋牟礼川遺跡

指宿にある縄文時代から中世まで続く拠点集落の遺跡です。縄文時代、弥生時代、古墳時代、平安時代と4度の開聞岳の噴火による火山灰層のおかげで、噴火直前の集落の痕跡が保存されています。特に弥生土器と縄文土器が民族の違いでなく、時代の違いであったと証明されたことで有名です。

知覧特攻平和会館

初めて訪問しました。特攻隊員の手紙や出撃直前の写真など胸を打たれます。一度は訪れるべきところですね。井筒監督が酷評した石原慎太郎の映画のポスターが掲示されていて、私は不快でした。

チブサン古墳

5世紀から7世紀にかけて、古墳内部に絵の具で、文様、動物、武具、人物などを描く装飾古墳が造られました。主に九州と東日本に分布しています。ここは、熊本県山鹿市菊池川の支流沿いにある6世紀前半の前方後円墳です。継体磐井戦争の磐井の墓である八女の岩戸山古墳同様に以前は石人が立っていました。現在は九州国立博物館に展示されています。

石室内石屋型の装飾文

ここでは石室内に入って「乳房の神」と称される壁画を見学できます。土地の人々はチブサンと呼んだようですが、十数年前に訪問したときウチの息子さんは「鳥ちゃんがいるね」と言いました。近くの装飾古墳館では近隣の古墳の再現壁画を見学できます。

山鹿の鍋田横穴

同じく山鹿市内の菊池川支流沿いの崖に横穴という7世紀の墓が並んでいます。前方後円墳の時代から100年後、聖徳太子の時代ですね。近畿地方では高井田横穴が有名です。肥後の石工は有名ですが、昔から石に装飾する地域なのですね。

鍋田27号横穴の装飾

国道沿いに案内板がでているのですが、囲いも何もなく、27号横穴の左壁にこの装飾が雨ざらしになっており、これが本物?という感じです。左が盾、真ん中が靫、右は被葬者でしょうか?1400年前の祖先の素朴な図柄に感動します。

江田船山古墳

江田船山古墳(えたふなやまこふん)は、熊本県玉名郡和水町、菊池川の左岸段丘上にある墳丘長62m、5世紀末の前方後円墳です。日本最古の本格的記録文書である75文字の銀象嵌(ぎんぞうがん)銘をもつ大刀が出土したことで有名です。

銘文の冒頭は「台(治)天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□(利ヵ)弖、以下略」で、「獲□□□鹵大王」は、多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと、反正天皇)と長い間推定されていましたが、埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣に、1978年に「獲加多支鹵大王」という文字が発見され、「ワカタケル大王」(雄略天皇)と読むことが分かりました。

被葬者のムリテはワカタケルの宮廷で役所に勤務する文官「典曹人(てんそうじん)」として、東国の稲荷山古墳の被葬者ヲワケは宮廷の親衛隊長「杖刀人首(じょうとうじんのかしら)」として仕えました。5世紀後半のワカタケル政権は、各地から首長達を宮廷に出仕させ、王権が直接掌握し、倭社会を統治していたと判明したのです。

この時代をさらに250年さかのぼるとヒミコの時代です。魏志倭人伝に「其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王」とあります。女王国に服さない狗奴國の王「狗古智卑狗」はキクチヒコ(菊池川流域の支配者)という説もあります。肥後の菊池川流域は古代から肥沃で有力な地域だったのでしょう。