「茶の湯」東京国立博物館
「茶の湯」をテーマに、茶道具の名品が一堂に会する展覧会は、37年ぶりとのことです。茶碗、棗、水差し、釜と国宝の大集合、さらに、期間限定で静嘉堂所蔵の国宝「曜変天目(「稲葉天目」)」の展示もあるとのことで観覧してきました。
国宝 曜変天目(稲葉天目)
世界で現存する曜変天目(完形品)は、日本にある三碗のみ。この静嘉堂文庫美術館所蔵の曜変天目は、家光から春日局を経て稲葉家へ伝えられたもので、最も美しいと言われています。確かに、大阪の藤田美術館で鑑賞した曜変より模様が大きく色彩が華やかで美しいと感じました。
再現不可能と言われてきたこの茶碗の謎を瀬戸市の陶芸家長江惣吉さんが解明。何回も中国福建省の建窯に通い、20年近い研究で「曜変天目は偶然にできたのではなく、蛍石を焼成中の窯に投じて生じるガスによる化学変化、気相反応でできていた」「二万焼いて、五つの茶碗に出るかどうか。効率が悪いが、優れた茶の文化があった宋代だからこそ、作られた。成功率はやはり低かったに違いない」との結論に。素晴らしい業績ですね。
粉引茶碗「三好粉引」
粉引(こひき)は李氏朝鮮から日本に伝わった陶器で、褐色の素地の上に白化粧土を施したもの。粉引の茶碗といえば、火間(ヒマ)がお約束。茶碗の高台を指でつまんで、ひしゃくで釉薬をかけるとき、釉薬をかけはずした部分ができ、白い茶碗に三角を切り抜いたような黒いアクセントになる、これが火間。足利義政が収集していた「東山御物」は幕府財政の逼迫で戦国大名家に流出、その多くは、京畿を支配していた三好一族や堺の会合衆が手にしたとの由。三好長慶ゆかりの家から天目茶碗が発見されることは充分あり得ることなのですね。
青磁茶碗「馬蝗絆」
雨過天晴と称えられる青磁茶碗の優品です。足利義政の愛蔵品であり、ひび割れが生じたので,代わるものを明に求めたところ,もはや宋時代のそのような優品はなく,鉄の鎹(かすがい)でひび割れを止めて送り返してきたというのです。この鎹を大きな蝗(いなご)に見立てて,馬蝗絆と名づけられました。
根津美術館
根津美術館の有名なアプローチです。隈研吾さんの設計、左右の竹がきれいです。尾形光琳による国宝「燕子花図屏風」と鈴木其一による「夏秋渓流図屏風」を同時に鑑賞できる特別展をみてきました。日本庭園の茶室ではお抹茶のおもてなしがあり、池にはかきつばたが咲き乱れて贅沢な時間でした。
かみつけの里
八幡塚古墳は5世紀後半の築造、全長96mの前方後円墳です。左は榛名山。5世紀末と6世紀前半の榛名山の2回の噴火で、火山灰に覆われました。近年の調査で、当時の状態そのままに、豪族居館や竪穴式住居や武装した男性とその家族の遺体などが発掘されており、ここ榛名山東南麓は、考古学では注目のエリアです。
「かみつけの」は、上(かみつ)毛野(けの)です。この「毛」は米や麦の穂先のこと,「毛野」(けの,けぬ)は米や麦などが生い茂っている場所を指す言葉で、古墳時代は大穀倉地帯だったのでしょう。筑紫、吉備、大和、尾張、そして毛野に大型古墳があります。
八幡塚古墳の埴輪
巫女が王や側近に相対してすわっています。王権の継承儀礼を表現しているといわれています。オホド王(継体天皇)の今城塚古墳(高槻市)のものと似ています。埼玉の稲荷山古墳出土の鉄剣には「ワカタケル大王」(雄略天皇)の文字もあり、ヤマトタケルの東征は大和が毛野へ強い影響を与えていたという事実を反映した物語であることがわかります。
埴輪の中に、魚をくわえた鳥の埴輪があり、5世紀に鵜飼があった証拠とされています。
岩宿遺跡
日本では縄文時代より以前に人類は居住していなかったと考えられていましたが、1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が、岩宿(群馬県みどり市)で関東ローム層中から旧石器を発見した、というその場所です。
岩宿博物館
背後の森が、岩宿遺跡です。野尻湖ではナウマンゾウの化石とともにナイフ形石器が発掘され、4万年前の旧石器時代に、人が住んでいたことを確認。大阪藤井寺市のはさみ山遺跡では約2万2000年前の円形竪穴住居が検出され、サヌカイト製のナイフ形石器などが出土。これらの旧石器時代解明の学術研究はこの地から始まったわけです。